今回は、劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家と多方面で活躍した秋田雨雀。雨雀は青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれ、東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学しました。
1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表し、小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、1909年には小山内薫の自由劇場に参加。1911年「自由劇場」の第四回公演で自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演された。
1913年には島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加したが、翌年脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成しました。それ以後、芸術座、先駆座などに参加する一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍しました。
夢二との関係では、1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、夢二とともに茨城県の水戸へ旅をしました。
これは夢二の草稿「九十九里」(1905年)を見て書いたもので、この作品は同年6月から読売新聞に房総紀行「涼しき土地」として連載されました。当時の房総の様子がよく描かれています。
*この文は、『宵待草70年の歳月』竹久夢二展(毎日新聞社主催)図録に掲載されたもの。(開催場所:千葉県船橋市船橋そごう(1981.10.16―21)・柏市柏そごう(1981.10.23―28)
こんな草稿が何うして保存されていたか私には解らない。しかし、確かにある時代の文字に相違ない。夢二とは私は一緒に旅行したこともあるが、夢二は旅を好きであったばかりでなく、旅に酔い旅に溺れる人であった。ある意味では一生を旅で終えたといってもいいほどである。
この草稿「九十九里」の最後が水戸の町の記事になっているが、私たちが彼と一緒に旅行したのも、水戸であった。この旅行はあの盲詩人のワシリー・エロシエンコと一緒だった。エロシエンコのことを私たちはエロさんと呼んでいたが、夢二もやっぱりエロさん、エロさんと呼んでいた。私たちは、水戸の中学や女学校や盲学校などでお話をしたり、エロさんのバラライカの唄をきかせたりしたが、夢二は唖生徒たちに上手な絵話しをしたので、唖生たちがとても喜んだのを記憶している。
夢二は旅では普通の人が余り気のつかない事に、或はあまり興味を持たないことに妙にひきつけられることがあった。そんな時、私たちはいらいらして腹の立つことがあった。しかし、後で考えると、夢二はそんな時きっと何か収穫を得ていたようであった。夢二は旅ではよく道草を喰った。スケッチブックを持って何処かへ行っていくら待っても来ないので困らされたことは二度や三度ではなかった。夢二は一生道草をくっていたような気もするが、それにしては羨しい一生だと思う。
昭和15年7月 雑司谷にて 雨雀
秋田雨雀(Wikipediaより)
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