ゆみちゃんの365日

日々の出来事を綴っています。

一周忌法要で帰省した

2010-03-08 04:42:56 | 旅行記

3月6日(土曜日)
昨年の3月に亡くなった、妹の旦那さんの弟の一周忌法要に招かれ鳥取へ帰省した。法要は午後なので起きたとこ勝負だったが、運良く5時に出発できた。雨の中、名神高速から中国道をひたすら走り、落合JCから米子道へ。湯原ICを出ると、地元湯梨浜町までは1時間ほどだ。京都から3時間半で到着した。昼ごろ行くと言っていたので、余りにも早く着き驚いていた。
昨年の11月末に友人T君亡くなりもうすぐ100日になる。次回帰省したとき奥様に顔を出しますと約束をしていたので、法要まで時間があり伺った。仏壇の前には遺影があり、「ふ~ちゃん元気してるか」と声をかける。返事が返ってこないのが、今までと違うところだ。奥さんは毎日遺影に声をかけ、涙していると言っておられた。
仏壇のある部屋に、奥さんが作ったキルティングの大作が広げてあった。時間と労力はかなりかかっていることは、素人目でも良くわかる。

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奥さんの趣味のキルティングもT君が元気なときは、「上手に出来たな」と褒めてもらったそうだが、今は誰も言ってくれない。

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今度6月に展覧会があり、それに向けて頑張っていると未完成だが見せていただいた。自分が着ていたアロハシャツをほどきつくったもの。キルティングについては何も知らないが、何か熱中できることがあるのは良いことだ。1時間ほどおしゃべりして、「元気だしてな、また帰省したらお参りに来ます」と言って帰った。
11時なのでまだ時間がある。弟の家に寄ったが、弟は出かけて留守をしていた。嫁の真由美さんだけだったが上がらせてもらい、ビールをゴチになった。私よりも一回り違うが、「ゆみちゃんゆみちゃん」と慕ってくれるのが嬉しい。姪っ子の温子さんがベトナムから電話をしてきた。いきなり真由美さんは受話器を私に渡してくれた。電話に私が出たので温子さんは驚き、「おじちゃんどこにおる~?」と問いかけてきた。「京都におるで」と返事をすると「???」。一瞬間違えたのかと思ったかも知れないが、のみ込めたようだ。
ボランティア活動で孤児院に行っているが、ベトナムは2度目だ。アルバイトで資金を貯めて、孤児院でボランティア活動する温子さんには感心する。貴女は素晴らしい!
20数名の方がお見えになって、1時半から妹の家で法要が始まった。

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普通法要でのお経は、30~40分で終わる。畳の上なので、20分ほどで足がシビレてきた。我慢が出来なくなりアグラをかかせてもらった。もう終わるか、もう終わるかと何度も時計を見る。開始して50分になるがまだ読経は続く。よやく終わったのが55分後だった。年寄りの方は、丁寧で有難いと思うことだろう。椅子座っていれば別にどうということは無いだろうが、畳は特に若い女性にとっては長時間の正座は苦行に等しい。後ろから足をモジモジしている姿を拝見すると、早く読経を終わってと言いたくなる。
これが終わると車で6キロ先の松崎にある墓へ移動した。この墓は妹夫婦が昨年建てた墓で、この墓に納骨されたのは旦那さんの弟が最初だった。

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お墓参りは30分ほどで終わり、今度は地元のお寺さんへお参りした。この寺の特徴はマイ木魚だ。焼香が済むと最後は全員で、足元に置いてある木魚を、和尚さんの木魚に会わせて叩く。合奏のようで叩いていて楽しい。ポク!ポク!ポク!。

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皆さんが親の敵とばかりに力が入ってくれば、段々と音が大きくなる。
これが終わると、松崎の水明荘で会食があった。本日の出席者の名簿が配られてきたが、何と故人の所属していた大阪YMCA山岳会の方々が遠路はるばる13名も来られていた。告別式の時は山岳会の方が70余名も参列され、49日の法要の時も、鳥取まで10数名も来られていたと聞きもビックリした。故人が山岳会の皆さんに、いかに慕われていたかを良く物語っている。山を愛する人達の、絆は何と太いことか。
故人の兄から、「弟は皆さんに支えられ、最高の人生を送ることができ有難うございました」の謝辞の後、大阪山岳会会長の献杯で会食は始まった。故人は飲めなかったようだが、兄は飲む。兄弟で飲むのは、この兄だけだそうだ。
料理は食べきれないほど次から次と出てきた。

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1時間もせぬうち故人の兄はダウンしてしまった。料理を食べないで、焼酎をストレートでコップでグイグイグイ。
普通では考えられないスピードで飲み干す。ビールでも酒でも焼酎でも同じスピードだ。一合を、ひ~ふ~み~よ~と数えればグラスは空っぽ。
お陰で妹は、締めの挨拶をせねばならなくなった。飲みすぎると記憶に残っていないので、幸せものとしか言ようがない。
東京から来られた山岳会のお嬢さんは夜行バスで帰られたが、残りの12名の方は水明荘に宿泊された。私も一人部屋に泊まったが、山岳会の皆さんと一部屋に集まり、二次会の宴会をした。10時までの2時間、楽しいひと時を過ごした。山岳会の方は女性7人、男性5人。お嬢様、オジンギャグでごめんなさいね。
故人を偲ぶ追悼文集(90ページ)を頂き読ませてもらった。故人は仲間の皆さんに喜んでもらえるよう、毎回のようにリュックに高級な果物を詰めて持って行っていたようだ。出してきた果物が、つぶれていないのが彼の得意技。何人もの方が、打ち出の小槌よろしく果物が出てくることが印象に残っていると寄稿されていた。
どう考えても、私が亡くなって追悼文集が発行されるなど、天地がひっくり返ってもありえない話だろう。羨ましいいね。

3月7日(日曜日)
10時にチェックアウトし、妹の家に帰った。今日は婆さんが介護施設から外出許可が出て、昼には弟の家に一時帰宅する。
11時過ぎに確認の電話をすると、すでに帰宅していた。大阪に住む妹の娘も今回の法要に帰省していて、帰りは一緒に帰ろうと約束していたので、皆で揃って顔を見に行った。
今日は婆さんは調子が良く、しゃべる言葉を理解できる。「誰だかわかるか?」と聞いても返事がなければガッカリするが、分かれば嬉しいものだ。
姪っ子が婆さんに昼食を食べさせた。食べ終われば昼になった。夕方の大阪は車が混雑するので、早く出発するにこしたことはない。婆さんに「またくるけ」と告げ、正午には泊を後にした。一路院庄ICを目指したが、途中の人形峠の道の脇にはまだ沢山の雪が残っていた。気温は2度。さすが豪雪地帯だ。
奥津温泉道の駅でラーメンを食べてから高速に乗った。相変わらず雨がしとしと降っている。スピードは控えめにと心に言い聞かせる。これに従ったかどうかは定かではない。
赤松PAで一休みして、近畿道を通って泉大津の姪っ子の家までビュ~ン。正味時間は3時間半くらいなものだろうか。送り届けると元来た道を引き返した。
茨木ー大山崎ー久御山をまわって5時50分に帰宅した。二日間の走行距離700キロ。少々疲れた。

コメント
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