出エジプト後半 19-40章
前半では、神がどのようにして奴隷にされていたイスラエル人を救い出したかを見ました。
神はファラオと対決して打ち負かす一方、過ぎ越しの子羊の血による逃れの道も備えられたのでした。
その後神は海の中を通らせて自分の民を解放し荒野へと導かれました。
ところが彼らはそこで神に不平を漏らしたのです。
出エジプト記の後半は、モーセが民をシナイ山のふもとに導いたところから始まります。
神はそこでイスラエル民族に契約を結ぼうと呼びかけました。
ここは神がアブラハムとの約束を一歩先に進めたという意味で、非常に重要な場面です。
創世記では神がアブラハムの子孫を通して、すべての国々に対する祝福を回復すると約束されたのでした。
この箇所では更に具体的に、もしイスラエルが神との契約を守るなら、律法と教えと義によって形造られ、祭司の王国となり神の性質を表す者として世界中に神を指し示すことになるというのです。
イスラエルの民は大喜びで契約に同意したので、シナイ山の頂上で雲と雷の中に神の栄光が現れました。
それからモーセが民の代表として山に登って行き、神は有名な十戒を彼に与えました。
十戒はイスラエルと神の関係について最も基本的な約束です。
次にこの十戒をさらに詳細に掘り下げた律法が告げられます。
礼拝に関する規定や社会正義を守り共に生きていくための律法で、これらは皆正義と思いやりを重んじ、イスラエルを他の国々とは違う国とするためのものです。
モーセがこれらの律法を書き留めて降りて行くと、民はこの契約を結ぶことに改めて熱烈に同意しました。
そこで神は彼らとの関係をさらに進めました。
聖なる、また善なるご自身の存在がイスラエルのただ中に住むとモーセに告げられたのです。
これはまた別の意味で神の契約を進展させました。
人間がエデンの園で神に反逆した時、神の臨在は失われました。
しかしこの時アブラハムの子孫と結ばれたこの契約を通して、この臨在が回復されるのです。
まずはイスラエル民族との間で、そして後にはすべての国々との間で。
次の7つの章は、幕屋と呼ばれる神聖なテントの設計図です。
幕屋にはまず祭壇を備えた中庭があり、その奥に天幕があってその中は手前の部屋と奥の部屋に分かれています。
奥の部屋は至聖所と呼ばれ、そこには契約の箱という純金の箱が置かれています。
箱は天使のような生き物の像で覆われており、ここが神の臨在の中心地となります。
この7つの章にはたくさんの細々とした指示が書かれていますが、その一つ一つには象徴的な意味があります。
各種の花、天使、金、宝石は、神と人が親密に暮らしていたエデンの園を象徴します。
天幕は言ってみれば持ち運び可能なエデンの園なのです。
ここで神とイスラエルは共に平和に暮らせるはずでした。
しかし非常にまずいことが起き始めていました。
イスラエルの民が契約を破ったのです。
モーセが山の頂上で天幕の設計図を受け取っているころふもとではイスラエルの民がしびれを切らしていました。
そしてついに彼らはモーセの兄アロンに、金の子牛像を造ってそれをエジプトから救い出してくれた神として礼拝しようと言い出したのです。
山の頂上には神の臨在が見えているのに、その山のふもとでこの民は結んだばかりの契約の最初の二つの項目、ほかに神があってはならない、偶像を造ってはならないを破ろうとしているのです。
ここで非常に興味深いことが起こります。
神はふもとで何が起きているか知っていました。
そしてまずモーセにご自分の怒りと痛みを打ち明け、イスラエルを絶ち滅ぼすと言われます。
モーセは神のご性質に訴えてそれを止めようとしました。
まずイスラエルを滅ぼしたらアブラハムとの契約が、反故にされると主張しました。
次に、あなたがご自分の民を滅ぼすのを見たら近隣諸国はなんと言うかを考えてくれと言いました。
神はモーセのとりなしを受け入れ譲歩しました。
偶像礼拝を扇動した者には裁きを下しましたが、イスラエル全体は赦し契約を新たにすると約束したのです。
そしてこの時初めて神はモーセに対して、ご自身の性質を紹介されました。
主は憐れみ深く情け深い。
怒るのに遅く、契約を守り抜く方、罪を赦してくださるが悪者を罰せずにはおかない。
これは一見矛盾した複雑な真理です。
神は憐れみに満ちた方ですが、善なる方である以上悪に対処しなければなりません。
そして何よりも神は約束を守る方です。
たとえその相手が不誠実な民だとしても、新たに契約を結んだあと神はモーセに、天幕を造るように命じました。
このあと再び天幕の建設についての詳細が5章にわたって続きます。
そして最後の章はこの天幕の完成で終わっています。
神の栄光は天幕の上に留まり、期待が高まります。
モーセは天幕に入って行こうとしましたができませんでした。
それがこの書のエンディングです。
意外に思えるかもしれませんが、無理もないことなのです。
イスラエルの罪は神との関係を私たちが思う以上に損なっていたのですから。
出エジプト記はファラオの悪が、イスラエルの民と神の契約を脅かしているところから始まりましたが、最後はイスラエル自身が自らに危険を招いたところで終わっています。
契約を危うくしているのは彼らの罪そのものだったのです。
ここから神はどのようにして聖であり、善であるご自身の臨在と、罪にまみれて堕落した契約の民であるイスラエルとの折り合いをつけられるのかという問題となってきます。
その答えは次の書にあります。
これが出エジプト記です。
完