神様との日々をまったりとアップgooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

民数記

2021-01-15 16:12:37 | 日記

バイブルプロジェクト 民数記文字起こし

民数記概観

聖書の4つ目の書である民数記は、奴隷にされていたイスラエルがエジプトから救い出された後の話しになります。

神はイスラエルをシナイ山に導き、彼らと契約を結びました。

そして彼らの背きの罪にもかかわらず、幕屋に満ちるご自身の聖い臨在の側で、彼らが暮らせる道を備えられたのです。

民数記はイスラエルがシナイ山での1年の滞在を終え、神がアブラハムに約束された地を目指し荒野に出て行くところから始まります。

この書は旅の進み具合に沿って構成されています。

最初のセクションはシナイ山から始まり、パランの荒野に旅立ちます。

次に約束の地の真向かいにあたるモアブの平野を渡って行きます。

冒頭では民の人口調査が行われ、民数記というタイトルもここからついています。

またイスラエルの部族には宿営する時の配置についての律法がありました。

まず中心に会見の天幕。

その周りに祭司とレビ人。

そしてその周りに12部族がユダ属を筆頭にきちんと配置されます。

これは神のきよいご臨在が民の中心にあったことの象徴でした。

その次には、レビ記のきよさについての律法をさらに発展させたものが続きます。

神が彼らのただ中にいてくださるなら、このきよい神をお迎えするために宿営をきよく保つあらゆる努力をしなければなりません。

10章では神の臨在が宿る雲が天幕の上に現れ、民をシナイ山から荒野へと導きますが、その途端事態は悪化します。

11章では空腹とのどの渇きについて文句を言い、エジプトに帰りたいと訴え始めました。

12章ではモーセの兄と姉も彼に盾つき皆の前で彼を非難しました。

旅は最悪のスタートとなってしまいました。

次のセクションではイスラエルはパランの荒野に到着します。

約束の地までちょうど半分ほどの道のりです。

神はモーセに12部族から一人ずつ選び出し、約束の地を偵察させるように命じました。

戻って来た偵察隊のうち10人は、イスラエルに勝ち目はなくカナン人に滅ぼされるだろうと言いました。

しかしカレブとヨシュアの二人は、神が助けてくださるだろうと言いました。

すると残りの10人は民を先導して反乱を企てました。

新しい指導者を立てエジプトに帰ろうとしたのです。

当然のことなふぁら神は怒り、モーセは民ためにとりなしました。

モーセはアブラハムへの約束を守ってくださいと懇願しました。

神はその願いを聞き入れましたが、そのために正義を曲げはしませんでした。

約束の地に入りたくないと言った者には、その通りにしてやることにして、この世代が死に絶えるまで40年荒野をさまとわせると宣告されたのです。

彼らの子ども世代が約束の地に入ることになりました。

彼らがそこで目を覚ませばよかったのですが事実は逆でした。

レビ人の一団がモーセとアロンに対して、「あなたたちは分を超えている」と言って立ち向かったのです。

神はこのレビ人たちに厳しく対処し、ご自身がモーセとアロンを民の指導者に立てたことを改めて宣言されました。

こうしてイスラエルの民はパランを旅立ちましたが、彼らの態度は改まっていませんでした。

のどの渇きを訴えて、不平を唱えなぜエジプトから連れ出したのかとさえ言ったのです。

そこで神はモーセに岩に命じて民のために水を出せと言いました。

しかしモーセはその通りにはしませんでした。

言われていないのに岩を二度打ち、「逆らう者たちよ、われわれがこの岩から水を出してやらねばならないのか」と言ったのです。

モーセは自分が水を出したかのように神を押しのけてしまいました。

そのためモーセは荒野をさ迷い続ける」民と、同じ運命をたどることになりました。

彼も荒野で死に約束の地には入れないのです。

民はこのあとも神に逆らい、神は一風変わった裁きをくだしました。

毒蛇が現れ民を噛んだのです。

モーセが再び民のためにとりなすと、神は次のように命じます。

青銅の蛇を作り棒の先に取りつけて上げること。

その蛇を見上げた者は蛇の毒から癒される。

奇妙な方法のようですが、これは神がご自身の契約に誠実であることを現しています。

神はイスラエルの悪と罪に裁きを下すのにふさわしい方です。

しかし癒しを求めて神を見上げる者に対しては、その裁きさえ命の源に変えるのです。

この後民はモアブの草原に向かいます。

このセクションではまずバラムという変わった人物に焦点を当てます。

モアブの王は自分の領地を横切って行く、イスラエルの大集団に恐れをなし、彼らを呪うために魔術師を雇いました。

バラムは3度にわたってイスラエルを呪おうとしたのですが、3回ともそれはできず逆に祝福してしまう始末でした。

これはアブラハムへの約束を思い起こさせます。

神はバラムにイスラエルを呪わせず、かえって祝福させただけではなく、いつの日か全ての国に神の義をもたらすイスラエルの王についてのビジョンを彼に見せたのです。

このビジョンは創世記49章でヤコブがユダに与えた祝福の言葉をも思い起こさせます。

ここでこれまでの流れを振り返ってみましょう。

イスラエルは荒野で神に対する反抗を幾度も繰り返し、しかも段々とたちが悪くなって行きました。

それに対し神は裁きも下しましたが憐れみも示し、旅の間ずっと食べ物と水を与え続けて来たのです。

このバラムのストーリーでは、神の恵みはさらに鮮やかに描かれています。

文句を言い反抗し続けるイスラエルを、神は彼らが気づきもしない丘の上で守り、祝福しているのですから。

この荒野におけるイスラエルの頑なさと神の誠実さのコントラストが、後の世代のイスラエルにとって非常に重要になってくるのです。

荒野でのストーリーは後世の預言者や詩人、そして新約時代の使徒たちによってさえ繰り返し語り継がれました。

そしてそれはいつも警告でした。

神は御自身の契約にいつも誠実であられる一方、民がそれに反抗しその報いを受けるのを許容なさるということです。

このあと民数記は荒野世代の子どもたちに焦点を当てます。

彼らは約束の地を受け継ぐ準備を始めました。

新しい世代の人口調査を行い近隣諸国との数々の戦いに勝ち、いくつかの部族は約束の地に落ち着きました。

民数記の最後は新しい世代が約束の地に入り、モーセが知恵と警告を伝える最後の説教をしようとしているところで終わります。

これが民数記です。

 


レビ記

2021-01-15 16:12:10 | 日記

バイブルプロジェクトの文字起こし レビ記

レビ記は聖書の3番目の書で、イスラエルが奴隷から解放され、神によってシナイ山のふもとに導かれ、契約を結ぶことになった出エジプトの出来事のすぐ後に収められています。

イスラエルの民はたちまち神に逆らい契約を破りました。

神はご自身の栄光をイスラエルのただ中にある幕屋に住まわせたかったのですが、イスラエルの罪が神との関係を隔てていました。

出エジプト記の最後ではイスラエルの代表であるモーセが、神の臨在がある幕屋には入れませんでした。

レビ記はその根本的な問題を思い起こさせるように、『主は幕屋からモーセを呼び』という言葉で始まります。

罪と自己中心にまみれたイスラエルは、どうすれば聖なる神と和解はできるのでしょうか。

それがレビ記のテーマです。

つまり神は寛大にも罪深く堕落した民が、きよい神と共に生きるための道を備えてくださるのです。

ここで少し神のきよさについて考えてみましょう。

これはレビ記を理解する上で極めて重要です。

きよいということばの意味は、分離されている、他に類を見ないということです。

聖書において神はすべてのものの創造者、すべての命の造り主という他に、類を見ない役割のゆえに他のすべてのものから分離されています。

そして神がきよいなら、神の周りの空間もきよいということになります。

それは神の善、命、純潔、義で満ちているからです。

ですから不正と罪にまみれたイスラエルが神の聖なる臨在の中に住むためには、彼らもきよく哭けらばなりません。

彼らの罪の問題には解決が必要です。

そこでレビ記の登場です。

この書の構造はシンメトリーになっています。

レビ記は神がイスラエルをご自分の聖なる臨在の中に住まわせるために備えた3つの方法を示しています。

最初と最後のセクションは、聖なる臨在の中でイスラエルが守るべき儀式の手順についてです。

その間は神と民との仲介者である祭司の役割について、そしてより中心はイスラエルのきよさについてです。

そしてこの書の中心に最も重要な儀式として、宥めの日が記されており、こうやってレビ記全体はひとつにまとまっています。

最後はモーセがイスラエルに対して、この契約に誠実であれと呼びかける短いセクションで閉じられています。

では初めから詳しく見て行きましょう。

まず最初のセクション(1-7章)にはイスラエルが命じられた5種類の捧げものについて書かれています。

そのうちの2つは感謝の捧げもので、神が与えてくださったものを記念して捧げるものです。

残りの3つは謝罪として捧げるもので、例えば一人のイスラエル人が神の造られた善き世界に、罪と死をもたらす罪を犯したことを告白するときに、動物の血を捧げるようなものです。

神は罪人を滅ぼすのではなく赦したいと願っています。

そこで動物が罪の贖いを象徴するために、動物が代わりに殺されるのです。

この儀式を行うことによってイスラエル人は、神の恵みだけではなくその義も、そして自分たちの罪が招く結果の恐ろしさも絶えず思い起こしていたのです。

ここと対になっているセクションでは、イスラエルが毎年行う7つの祭りに関する儀式があります。

一つ一つの祭りは、神がエジプトの奴隷だったイスラエルをいかに救い出し、荒野を通らせどのように約束の地に導いたかというストーリーの各部分を記念するためのものです。

これらを毎年祝うことでイスラエルは自分たちは何者で、神とはどんなお方なのかを思い出すことができるのです。

さて祭司についてのセクション(8-10章)を見ましょう。

イスラエルを代表して神の御前に出るようにと最初に任命されたのは、アロンとその息子たちです。

そしてこれとついになるセクション(21-22章)には、祭司になるための資格が記されています。

祭司は民を代表するのと同時に、民にとっては神を代表する存在なので、道徳的にまた儀式的に最大限の聖さが求められます。

初めのセクションを見ると、祭司の聖さがなぜそこまで大事なのかが分かります。

アロンの家系が祭司に任命された直後、アロンの二人の息子たちは軽々しく神の前に出て行き、律法を踏みにじったのです。

彼らはその場で滅ぼされました。

この出来事は神のきよさの前で生きることの素晴らしさと、それを軽んじることの恐ろしい危険の両方を教えています。

ですからイスラエルの祭司がきよくあること、またイスラエル全体がきよくあることは重要なのです。

次のより内側のセクションはそのことについて述べています。

11章から15章にかけてはイスラエル人に求められる儀式的なきよさ、18章から20章にかけては道徳的なきよさについて記されています。

ここではきよいものと汚れたものについて多く書かれています。

神は聖くまた分離された存在ですから、その御前に出て行くイスラエル人もきよくなければなりません。

それがきよい、汚れていない状態です。

汚れた状態の者は神の前に出ることはできず、その状態はきよくない、汚れていると呼ばれます。

例えば次のような場合その人は汚れているとみなされます。

精液などに触れた者。

皮膚病の者。

カビや菌に触れた者。

死体に触れた者。

イスラエル人はこれらを死、または命を失うことの象徴と考え、更に死に触れた者は汚れるとみなしていました。

死は神のきよさの対極にあります。

なぜなら神は命の源だからです。

ここで気を付けなければならないのは、汚れた状態になるのは罪でも悪でもないということです。

生活していれば起こり得ることであり、汚れた状態は一時的で、一週間か二週間で終わります。

本当に悪いことは死や汚れを象徴するものを身にまとったまま軽々しく神の前に出て行くことなのです。

これは赦されません。

最後に特定の動物を食べることによって汚れる場合があります。

このセクションには食に関する規定が書かれています。

衛生上の問題や文化的なタブーなど、それらの動物がなぜ汚れているかという仮説が今までたくさん立てられて来ましたがはっきりはわかりません。

ただし基本的なメッセージは明らかです。

これらは神の聖さは彼らの生活のすべてに及ぶということを、イスラエルが思い起こすための文化的なシンボルなのです。

これに類似するのは道徳的なきよさについて書かれたセクション(18-20章)です。

イスラエル人はカナン人とは違う生き方をするために召されました。

つまり貧しい者を見捨てずに気にかけ、性的にも高潔であり、自分たちの国で正義を追い求めるためなのです。

レビ記の真ん中(16-17章)にはイスラエルの祭りの一つである、宥めの日についての長い記述があります。

イスラエル人が一年を通して捧げる罪の犠牲の中で、どうしても生じるものを補うために年に一度行う儀式です。

大祭司が2頭のヤギを取り、そのうち1頭はきよめのための捧げもので人々の罪を購います。

もう1頭はアザゼルのヤギと呼ばれるもので、祭司がイスラエルの罪を告白し、その罪を象徴的にこのヤギに移して荒野に放つのです。

このことからも神がイスラエルの民と平和のうちに一緒に暮らすために、彼らの罪とその結果を取り除きたい強い思いがわかります。

この書は契約のすべてに対して誠実であれというモーセの呼びかけで閉じられます(26-27章)

モーセはイスラエルが律法に従うなら、平和と豊かさが与えられると述べ、もし不誠実で神の聖さを軽んじるなら彼らは滅び、やがて約束の地から追い出されるだろうと警告しています。

レビ記を聖書の大きな流れの中で捉えたいと思うなら、次の書である民数記の最初の文章を見ると良いでしょう。

そこに主は幕屋でモーセに告げられたとあります。

つまりモーセはイスラエルを代表して、神の御前に出ることができたのです。

レビ記に書かれていることが功を奏したわけです。

イスラエルは過ちを犯しましたが、神はそれを覆う道を備え罪深い民と平和のうちに住むことができるようにしてくださったのです。

これがレビ記です。

 




心からの祈りより 1月15日分

2021-01-15 09:14:14 | 日記
カレンムーア 心からの祈りより
2021年1月15日
《平安な心》
マタイの福音書5:9
平和を作る者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
平和の神よ、あなたの恵み深い聖霊をわたしたちの上に降らせ、あなたの驚くべき平安で、わたしたちを満たしてください。あなただけが、わたしたちを清くしてくださいます。あなたはわたしたちの必要をすべてご存じで、先に立って歩き、道を作ってくださいます。
主よ、御前に静まることができますように。必要なものはすべて与えられ、「恐れることはない」と信じることができますように。今日、あなたから与えられた平安をもってすべてに当たることができるよう、助けてください。そうすれば、わたしたちは人にとっての祝福となるでしょう。
主よ、わたしたちは、いとも簡単に人生のカオスに押し流されてしまいます。今日、混乱からわたしたちを遠ざけ、もっとあなたに近づかせてください。イエスの名によって、アーメン。
トマス・ア・ケンビスの言葉
まず自分の心を平安にせよ。人の心を平安にするのはその後だ。平安で忍耐強い人は、学があっても平安のない人より自他の益になる。

心からの祈りより 1月14日分

2021-01-15 09:00:06 | 日記
2021年1月14日
カレンムーアの心からの祈りより
《変化への意志》
マルコの福音書2:22
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなころをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。
愛する主よ、わたしたちの多くは、変化というものにあらがうものです。慣れていることにほっとし、予測どおりに物事が進むと安心します。お気に入りのレストランで、新しい料理がメニューに加わるのは構わないけれど、いつもの料理がなくなっては困るのです。
変化は理解できないほど急にやって来ることがあります。こうした変化は、よしあしにかかわらず、受け止めがたいものです。人生があまりに急に変わるとき、わたしたちは圧倒されてしまいます。
主よ、あなたがわたしたちの人生にもたらしたいと思っておられる変化を、わたしたちが受け入れることができますように、アーメン。
ピーター・マーシャルの言葉
主よ、わたしたちが間違っているときには、変わる意志を持たせてください。正しいときには、そのまま生きることができるようにしてください。

心からの祈りより 1月13日分

2021-01-15 08:57:58 | 日記
2021年1月13日
カレンムーアの心からの祈りより
《新しい習慣》
エレミヤ13:23
クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。
それができるなら、悪になれたあなたがたも
善を行うことができるだろう。
主よ、悪い習慣からわたしを開放してください。それはあなたに仕えるものではありません。悪い習慣を克服する意志をわたしに与え、強めてください。新しい習慣を築くことができるよう、助けてください。そして、あなたが与えてくださる力、目的意識、喜びを、人にも分け与えることができますように。
命を衰えさせるような悪習に捕らわれているすべての人を、今日、あなたが解き放ってください。古い自己を捨て、新しい目標を持ち、新しい者となることができますように。よりよい自分、あなたが願っておられるような存在にならせてください。主よ、あなたの恵みと助けに感謝します。アーメン。
デジデリウス・エラスムスの言葉
くぎは別のくぎで打たれると抜ける。悪習はよい習慣に駆逐される。
くぎは別のくぎで打たれると抜けるの!!知らなかった不思議な所に発見がありました(笑)