ある本にこう書いてあった。
愛の反対は?
「憎しみ」とか「憎悪」?
答えはそうでは無く、
「無関心」とのことである。
言われてみれば
確かにそうかもしれない。
憎しみや憎悪は、
悪は悪だけど、一応、対象に対して
ある考えや行動を起こしている。
しかし、無関心とは、
その対象から冷たく通りすぎている
だけである。
ときとして、人は無関心を装う。
無関心でいることの方が、
罪は軽いと思うからだ。
どうもそうではないらしい。
道端で行き倒れになっている人がいて、
すぐさま救護が必要だけども、
面倒なことにかかわりたくないものだから
その場を見てみぬ振りをして通り過ぎる。
そして、後で自己嫌悪に陥る。
これも相当ひどい事であろうが、
無関心とはさらに恐ろしい状態のことである。
後に自己嫌悪さえも起こらず、
その光景を目にしても、
当然のこととして
平然と通りすぎることのできる
行いなのだから。
ニュースで流れる膨大な情報。
すべてを感心事としてとらえる事は
不可能だけど、
自分の身近に起こった
出来事については、
何事も関心事であるように
心がけたいものである。
【ヒゲ親父】
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「憎しみ」とか「憎悪」?
答えはそうでは無く、
「無関心」とのことである。
言われてみれば
確かにそうかもしれない。
憎しみや憎悪は、
悪は悪だけど、一応、対象に対して
ある考えや行動を起こしている。
しかし、無関心とは、
その対象から冷たく通りすぎている
だけである。
ときとして、人は無関心を装う。
無関心でいることの方が、
罪は軽いと思うからだ。
どうもそうではないらしい。
道端で行き倒れになっている人がいて、
すぐさま救護が必要だけども、
面倒なことにかかわりたくないものだから
その場を見てみぬ振りをして通り過ぎる。
そして、後で自己嫌悪に陥る。
これも相当ひどい事であろうが、
無関心とはさらに恐ろしい状態のことである。
後に自己嫌悪さえも起こらず、
その光景を目にしても、
当然のこととして
平然と通りすぎることのできる
行いなのだから。
ニュースで流れる膨大な情報。
すべてを感心事としてとらえる事は
不可能だけど、
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出来事については、
何事も関心事であるように
心がけたいものである。
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