哲人アリストテレスを引き合いに出すまでもなく、我々人間は社会的動物である。そうである以上、この私が社会的な問題のあれこれに関心を持ったとしても、それは決して不自然なことではない。
けれども、この私は社会の中で、一個の私として、ーー他人とは違った一人の個人として生きている。パーソナルな問題も私の関心をとらえて離さない所以(ゆえん)である。
私がほぼ毎日覗かせてもらっている「団塊シニア」さんのブログは、どちらかといえば社会的というより、パーソナルな問題に焦点を当てている。ブログ「団塊シニアのひとりごと」のきょうの表題は、「過去にこだわらないで今を生きる」。
こんなことが書いてあった。
「私自身は過去をあまり引きずらないで生きてきたつもりだ、それは齢を重ねてなお強くなってきた気がする、どんなに疲れてもどんなに行く手を塞がれても人生を降りるわけにはいかない、それなら心の持ち方ひとつで周囲の景色が違って見える生き方を選んだほうが楽しいはず。
過去を後悔するより今の事を考える、人生は一瞬一瞬の連続、苦しいこともやがて必ず和らぐはず、そう信じて生きてきたし、これからも信じて今を生きていきたい。」
(9月28日《過去にこだわらないで今を生きる》)
この文章を読んで、私は「団塊シニアさんらしいなあ」と思う一方、「過去を引きずって生きるって、そんなにダメなことだろうか?」という疑問を持った。
たしかに我々は毎日、何度も失敗を重ねながら生きている。その失敗の一つ一つに拘泥し、それを後悔しながらくよくよ生きるのは、賢明なことではない。
けれども、今の私があるのは、過去の私があってこそである。「失敗は成功のもと」という諺があるが、「成功のもと」になった失敗も含めて、様々な失敗が私を培い、成長の糧となり、その延長として今の私がいることは、否定できない事実である。
そうである以上、過去の私もひっくるめて、過去−現在−未来のトータルな存在としての〈私〉を全肯定するような生き方こそが望ましいのではないか。そういう生き方をするには、一瞬一瞬の〈今〉を悔いのないように精一杯生きることが必要ではないか。
そうはいっても、そんなきれいごとでは済まされない現実がある。
これも「団塊シニア」さんのブログに紹介されていたことだが、シニア女性が「捨てたい」と思うものは、「夫」、「姑」、「夫の親族」、「結婚指輪」だという。
「捨てたいというより死んでほしい
(50歳会社員、結婚27年)」
(9月25日《捨てたいもの捨てられないもの》)
もし私が妻からそんなふうに思われていることを知ったら、私は、妻のような女性と結婚したことを激しく後悔し、妻の本性を見極められなかった自分の不明を深く恥じるだろう。そんな女性と結婚した過去の私も含めて、過去−現在−未来のトータルな存在としての〈私〉を、私は全肯定することなどできるだろうか。
いやいや、世の中なんてそんなものさ、オンナなんてそんなものさ、と達観できる境地にたどり着くにはどうしたらいいのか、ーーこの問題をまずもって考えなければならないのかもしれない。
そうすれば、私でも「団塊シニア」さんのように、「過去にこだわらないで今を生きる」ことができるようになるのかもしれない。
やれやれ。男はつらいよ。
けれども、この私は社会の中で、一個の私として、ーー他人とは違った一人の個人として生きている。パーソナルな問題も私の関心をとらえて離さない所以(ゆえん)である。
私がほぼ毎日覗かせてもらっている「団塊シニア」さんのブログは、どちらかといえば社会的というより、パーソナルな問題に焦点を当てている。ブログ「団塊シニアのひとりごと」のきょうの表題は、「過去にこだわらないで今を生きる」。
こんなことが書いてあった。
「私自身は過去をあまり引きずらないで生きてきたつもりだ、それは齢を重ねてなお強くなってきた気がする、どんなに疲れてもどんなに行く手を塞がれても人生を降りるわけにはいかない、それなら心の持ち方ひとつで周囲の景色が違って見える生き方を選んだほうが楽しいはず。
過去を後悔するより今の事を考える、人生は一瞬一瞬の連続、苦しいこともやがて必ず和らぐはず、そう信じて生きてきたし、これからも信じて今を生きていきたい。」
(9月28日《過去にこだわらないで今を生きる》)
この文章を読んで、私は「団塊シニアさんらしいなあ」と思う一方、「過去を引きずって生きるって、そんなにダメなことだろうか?」という疑問を持った。
たしかに我々は毎日、何度も失敗を重ねながら生きている。その失敗の一つ一つに拘泥し、それを後悔しながらくよくよ生きるのは、賢明なことではない。
けれども、今の私があるのは、過去の私があってこそである。「失敗は成功のもと」という諺があるが、「成功のもと」になった失敗も含めて、様々な失敗が私を培い、成長の糧となり、その延長として今の私がいることは、否定できない事実である。
そうである以上、過去の私もひっくるめて、過去−現在−未来のトータルな存在としての〈私〉を全肯定するような生き方こそが望ましいのではないか。そういう生き方をするには、一瞬一瞬の〈今〉を悔いのないように精一杯生きることが必要ではないか。
そうはいっても、そんなきれいごとでは済まされない現実がある。
これも「団塊シニア」さんのブログに紹介されていたことだが、シニア女性が「捨てたい」と思うものは、「夫」、「姑」、「夫の親族」、「結婚指輪」だという。
「捨てたいというより死んでほしい
(50歳会社員、結婚27年)」
(9月25日《捨てたいもの捨てられないもの》)
もし私が妻からそんなふうに思われていることを知ったら、私は、妻のような女性と結婚したことを激しく後悔し、妻の本性を見極められなかった自分の不明を深く恥じるだろう。そんな女性と結婚した過去の私も含めて、過去−現在−未来のトータルな存在としての〈私〉を、私は全肯定することなどできるだろうか。
いやいや、世の中なんてそんなものさ、オンナなんてそんなものさ、と達観できる境地にたどり着くにはどうしたらいいのか、ーーこの問題をまずもって考えなければならないのかもしれない。
そうすれば、私でも「団塊シニア」さんのように、「過去にこだわらないで今を生きる」ことができるようになるのかもしれない。
やれやれ。男はつらいよ。
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