『自分の苗字で死ぬことが出来ないなんて・・・』
今月16日、夫婦別姓を認めない民法の規定について最高裁は、「夫婦同姓の制度は我が国の社会に定着してきたもので、家族の呼称をひとつにするのは合理性がある」などとして、合憲(憲法上問題なし)という判断を示した。
この最高裁の判断に対して、原告側のひとりの女性が報道陣の前で、『自分の苗字で死ぬことが出来ないなんて・・・』などと涙ながらに語った。
社会情勢がどうあれ、国際情勢がどうあれ、わが国はわが国であり、己は己であるとは思えないのであろうか?
己がこうこう思うからという理由だけで、それを国に押し付けたり、他人に押し付けたりすることが、如何に幼稚でバカバカしいことであるのかを考えていただきたい。
涙ながらに語る女性をみていると、不気味な様相を伺える。その女性を囲む、取り巻きたちにでもある。
その不気味さというのは、こうである。
例えば、AさんがBさんに対して恋心を抱くようになり、告白するとする。
しかしBさんは、Aさんのことを様々な観点から、自分には相応しくないと判断し、「お付き合いは出来ません」と答える。
それに対してAさんは、「こんなに貴方を愛しているのに、何故ですか?貴方は私を差別する気なのですか?」
当然ながらBさんには、Aさんを差別する気など毛頭ない。
気持ちが修まらないAさんは、なんとかBさんに自分の想いを受け入れてもらうためにと、己を変貌させていく。容姿や態度、人格などである。
この段階だけならば、よく聞く話しであるし、己を変えていこうとする気持ちは、恋心そのものだとも思える。
この時点で互いに恋心が成就し、お付き合いを始めるケースが多いことだと思うのであるが、例としては、恋心が成就しなかった場合を進めていく。
AさんのBさんに対する想いは、恋心からいつしか憎悪の念へと変わっていた。
Bさんの勤める会社へ連絡してみたり、行動の一部始終を監視してみたりと、まさに変質者(ストーカー)と変わり果ててしまっているのだ。
しかしAさん本人は、Bさんを愛しているのだからという念に取り憑かれ、我を見失ってしまった状態のため、己の行動に何の罪悪感もない。
こうなれば、もはやBさんにとっては、Aさんのことを不気味な厄介者としての評価しか出来なくなってしまっており、これを解決するため警察や第三者に願い出てしまうようになる。
例え終了。
己が正しいことと信じるあまり、それを他人に押し付けようとする。これは宗教の勧誘と同じことである。
まさに何の罪悪感もないところに、その不気味さを感じるところではあるのだが、夫婦別姓を推進する者たちにも同じようなことが言える。
自分たちの都合の良いことばかりを訴え、他人のことは無関心。そして国際情勢や未来思考に心囚われ、善と悪の見極めが出来なくなっているのである。
憲法がどうあれ、国がどうあれ、己が正しいと思うことであれば、人知れず静かに実践すれば良いことである。
苗字がかわることが嫌であるならば、無理に結婚する必要もないであろうし、先祖代々から伝わる苗字を大切にしたいと願うのであれば、それを黙って実践すれば良いだけのことである。
そんな生き方を制限するようなことは、わが国の民法や憲法には一切明記されてはいないのであるから、逆に夫婦別姓を他人に押し付ける者たちこそが違憲であり、差別を助長する罪深い人間たちなのである。
こうした矛盾した社会は、いずれわが国の土台ともいえる”家族”というものを、根底から崩壊させてしまうのであるが、それがこの国の運命ならば、黙って受け入れるしかないのである。
夫婦別姓、今回は”合憲”と判断されてはみたものの、心の底から安堵感を抱くことは出来ないのである。その理由というのは、やはり不気味さというものが、これから先も増していくことになるであろうからかも知れない。
この最高裁の判断に対して、原告側のひとりの女性が報道陣の前で、『自分の苗字で死ぬことが出来ないなんて・・・』などと涙ながらに語った。
社会情勢がどうあれ、国際情勢がどうあれ、わが国はわが国であり、己は己であるとは思えないのであろうか?
己がこうこう思うからという理由だけで、それを国に押し付けたり、他人に押し付けたりすることが、如何に幼稚でバカバカしいことであるのかを考えていただきたい。
涙ながらに語る女性をみていると、不気味な様相を伺える。その女性を囲む、取り巻きたちにでもある。
その不気味さというのは、こうである。
例えば、AさんがBさんに対して恋心を抱くようになり、告白するとする。
しかしBさんは、Aさんのことを様々な観点から、自分には相応しくないと判断し、「お付き合いは出来ません」と答える。
それに対してAさんは、「こんなに貴方を愛しているのに、何故ですか?貴方は私を差別する気なのですか?」
当然ながらBさんには、Aさんを差別する気など毛頭ない。
気持ちが修まらないAさんは、なんとかBさんに自分の想いを受け入れてもらうためにと、己を変貌させていく。容姿や態度、人格などである。
この段階だけならば、よく聞く話しであるし、己を変えていこうとする気持ちは、恋心そのものだとも思える。
この時点で互いに恋心が成就し、お付き合いを始めるケースが多いことだと思うのであるが、例としては、恋心が成就しなかった場合を進めていく。
AさんのBさんに対する想いは、恋心からいつしか憎悪の念へと変わっていた。
Bさんの勤める会社へ連絡してみたり、行動の一部始終を監視してみたりと、まさに変質者(ストーカー)と変わり果ててしまっているのだ。
しかしAさん本人は、Bさんを愛しているのだからという念に取り憑かれ、我を見失ってしまった状態のため、己の行動に何の罪悪感もない。
こうなれば、もはやBさんにとっては、Aさんのことを不気味な厄介者としての評価しか出来なくなってしまっており、これを解決するため警察や第三者に願い出てしまうようになる。
例え終了。
己が正しいことと信じるあまり、それを他人に押し付けようとする。これは宗教の勧誘と同じことである。
まさに何の罪悪感もないところに、その不気味さを感じるところではあるのだが、夫婦別姓を推進する者たちにも同じようなことが言える。
自分たちの都合の良いことばかりを訴え、他人のことは無関心。そして国際情勢や未来思考に心囚われ、善と悪の見極めが出来なくなっているのである。
憲法がどうあれ、国がどうあれ、己が正しいと思うことであれば、人知れず静かに実践すれば良いことである。
苗字がかわることが嫌であるならば、無理に結婚する必要もないであろうし、先祖代々から伝わる苗字を大切にしたいと願うのであれば、それを黙って実践すれば良いだけのことである。
そんな生き方を制限するようなことは、わが国の民法や憲法には一切明記されてはいないのであるから、逆に夫婦別姓を他人に押し付ける者たちこそが違憲であり、差別を助長する罪深い人間たちなのである。
こうした矛盾した社会は、いずれわが国の土台ともいえる”家族”というものを、根底から崩壊させてしまうのであるが、それがこの国の運命ならば、黙って受け入れるしかないのである。
夫婦別姓、今回は”合憲”と判断されてはみたものの、心の底から安堵感を抱くことは出来ないのである。その理由というのは、やはり不気味さというものが、これから先も増していくことになるであろうからかも知れない。