ある御人が「余計な教えなど要らないのであって、先祖の教えを忠実に守ってさえいれば救われるのではないか。」と問う。
「それは天下泰平に近い世であれば、その考え方に異論はない。しかし、これほどまでに世が乱れていれば話は違ってくるのだ。いつの世も同一の道理や真理でもって救われるはずはなく、しかも近年は科学技術の急激な発展・進歩によって人心は乱れきってしまった。このことからも、神道のみでもなく日本仏教のみでもなく儒教のみでもないのであって、如何にしてこの乱れた世を救うことができるのかは過去から学ぶほかない。」
「ではこれだけ多くの外国人が日本に移住している現状において、すべてその宗教をしらなければならないということなのか。」
「もちろんである。受け入れるならば当然そうした外国人たちの道理・真理を知る責任がある。その責任を放棄して安易な理由で外国人を受け入れようとするなどもっての他であり、罪深いことともいえる。しかし、その外国人が日本の宗教や教養などに帰依するというならば何ら問題はなく、受け入れる側は責任を果たしたことになるとも言える。」
「乱れきったというが、しかし未だ日本人の多くは他の国の人に比べ幸福感を享受しており、あなたが言うようなことは不可能に近いことではないか。もっと現実的な話をしなければならないと思うのだが。」
「たしかに現在(いま)を生きる者にとっては現実的でないということに否定することはできない。この国の将来世代がどのような人生を歩むことになるかは、現代(いま)を生きる者にかかっているという事を理解しないかぎりは無駄な議論であることは否めないと言える。しかしこれからは人口も減り、現在以上に物質的にも心情的にも貧しい時代になっていくことになるは、現代日本人・日本社会を見れば明らかなことである。だからこうした議論というのは例え現実的でなくとも将来世代にとっては現実的なことに繋がるのであって、決して無駄な議論と断言すべきではないのだ。こうして議論をしている間にも死んでいく者もあり生まれてくるものもある。よって時計の針が一秒進むごとに過去から未来へと変化しているのであって、これを一大事と言ってみてもおかしくはないのでないか。」
「日々、一日一日が一大事ということか。」
「如何にも。こうした考え方というのは古来日本人が近年までずっと守ってきたものであり、だから私たち現代人が幸福感を味わせて頂いくことが出来るのである。しかしこうした考え方すら失われてしまい、真剣に議論する者もいないのだ。」
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