論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
子疾病。子路使門人爲臣。病間曰、久矣哉、由之行詐也。無臣而爲有臣。吾誰欺。欺天乎。且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎。且予縦不得大葬、予死於道路乎。
《翻訳》
子 疾〔や〕みて病〔あつ〕し。子路〔しろ〕 門人〔もんじん〕をして臣〔しん〕 為〔た〕らしむ。病きこと間〔かん〕のときに曰〔のたま〕わく、久〔ひさ〕しいかな、由〔ゆう〕の詐〔いつわ〕りを行〔おこ〕なうこと。臣 無くして臣 有りと為〔な〕す。吾〔われ〕 誰〔たれ〕をか欺〔あざむ〕かん。天を欺かんや。且〔か〕つ予〔よ〕 其〔そ〕れ臣の手に死なん与〔よ〕りは、寧〔むし〕ろ二三子〔にさんし〕の手に死すること無からんや。且つ予 縦〔たと〕い大葬〔たいそう〕を得〔え〕ざるも、予 道路〔どうろ〕に死なんや、と。
《現代語訳》
〈あるお弟子さんがまた、次のように仰られました。〉
先師が、長いあいだ、学を修めることができないほどの病いに冒〔おか〕されていたときのことです。
子路さんが他のお弟子さんたちに、「先生に対して臣下の礼を執ってお仕えするように」といわれました。そのことを知った先師は病いがよくなったのを見計らい、子路さんに次のように仰られたのです。
子路よ。うれしいね、お主が私を喜ばせようとしてくれるのは。しかし、〈「天命を授かりし」といえども、放浪の身でしかない私には、〉臣下などあるはずもないのに、臣下があるように装うというのはいかがなものだろうか。
お主はいったい、誰を欺こうとしたのだ、天を欺こうとしたのか。
〈そんなことがないのは百も承知だが、〉そもそも私は、偽りの臣下よりも、これまで共に苦労を分かち合ってきたお主らに看取られ、最期を迎えたいのじゃよ。
その際は、礼式や礼法に則〔そく〕した、そんな大それた葬儀をされなくともよく、〈お主らに看取られながら最期を迎えることができる、〉それだけで、これまで私が生涯を通し追い求めてきた "道" に、殉ずることができるのじゃよ、と。
〈おわり〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
今回の孔子と子路とのやりとりはというのは、述而第七『丘の禱るや久し』のときと同じ時期であったろうと思われますが、ふたりの相変わらずのやりとりに、もはや師弟関係というのではなく、友か兄弟そのもののようにも感じてきます。
さて、今回の語句を語訳するにあたっては、『久しいね』を「うれしいね」と語訳したことからもわかるように、子路の気持ちをきちんと受け止めながらも、しかし、過ちというよりも、孔子の意に反していることをやんわり(和やか)とした雰囲気で指摘している様子が浮かんできます。
そして、子路の師への気持ちもまた、それはそれで道徳的ですし、孔子の弟子に対する気配りも道理に適っています。よって、こうした相対性道徳(=モラルジレンマ)が生じたときの対処方法として、今後大いに役立つであろう語句ともいえるのではないでしょうか。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考