論語を現代語訳してみました。
子罕 第九
《原文》
顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然、善誘人。博我以文、約我以禮。欲罷不能。既竭吾才、如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已。
《翻訳》
顔淵〔がんえん〕 喟然〔きぜん〕として歎〔たん〕じて曰〔い〕わく、之〔これ〕を仰〔あお〕げば弥ゞ〔いよいよ〕 高く、之を鑚〔き〕れば弥ゞ 堅〔かた〕し。之を瞻〔み〕れば前に在〔あ〕り、忽焉〔こつえん〕として後〔うし〕ろに在り。夫子〔ふうし〕 循循〔じゅんじゅん〕 然〔ぜん〕として、善〔よ〕く人を誘〔いざな〕う。我〔われ〕を博〔ひろ〕むるに文〔ぶん〕を以〔もっ〕てし、我を約〔やく〕するに礼〔れい〕を以てす。罷〔や〕めんと欲〔ほっ〕すれども能〔あた〕わず。既〔すで〕に吾〔わ〕が才〔さい〕を竭〔つ〕くせば、立つ所 有ありて卓爾〔たくじ〕たるが如〔ごと〕し。之に従〔したが〕わんと欲すと雖〔いえど〕も、由〔よ〕る末〔な〕きのみ。
《現代語訳》
〈あるお弟子さんがまた、次のように仰られました。〉
顔回(=顔淵)さんが、深いため息をつきながら、次のように仰られました。
ああ、先生を仰ぎ見れば見るほどますます高く、固い岩盤に穴をあけようと切り込めば切り込むほどますます堅固でいらっしゃる。
さらに、前にいらっしゃるかと思えば、もう後ろにいらっしゃるので、なんとも捉えがたい。
ところが先生は、順序を踏まえながらも弟子ひとりひとりをきちんと観察し、その人に見合った教鞭〔きょうべん〕をしてくださるのです。
私の場合は、私の足りていない学芸をきちんと理解されながら、それを補ってくれようとしてくださりますし、私の日々の行ないのなかで足りていないところがあれば、仁礼を尽くし、諭〔さと〕してくださります。
そんな先生に対して、どうして逆らえましょうか。
よって、私はこれまで、〈その恩に報いるために、〉私自身のすべてを尽くしながら学を修め、実践してまいりました。
しかし先生は、私以上の信念を貫かれながら、そびえ立つ山があっても、それを幾度となく乗り越えてこられたのです。
私は、そのような先生のあとにしたがい、その山を乗り越えようと思ってしても、いまの私には、その手立てすらもございませぬ、と。
〈つづく〉
《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。
智・義・信・礼・仁の五徳(日本版)をすべて兼ねそろえた顔回ですが、それにもまして孔子に対して恩に報いようとする姿勢というのは、深い感動すら覚えさせられます。
父母への恩、師に対する恩、お世話になった人への恩、そして生まれ育んでくれたふる里への恩など、今回の語句を語訳していて、改めて「恩に報いる」というのはどういうことなのか、と深く考えさせられた次第です。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考