和貴の『 以 和 為 貴 』

論語:郷党第十 〔4〕 私に覿ゆるには、愉愉 如たり


論語を現代語訳してみました。

(なお、郷党第十については、当時のシナ王朝の礼式や作法(しきたり)などの記述が多く、修身という分野からは少し外れている内容となっています。よって、当時のシナ王朝のそうした礼式や作法などに関心のある方のみ、ご覧になっていただければ幸いです。)



郷党 第十

《原文》
執圭、鞠躬如也、如不勝。上如揖、下如授。勃如、戰色。足蹜蹜、如有循。享禮有容色。私覿、愉愉如也。

《翻訳》
〔けい〕を執〔と〕れば、鞠躬〔きくきゅう〕 如〔じょ〕として、勝〔た〕えざるが如〔ごと〕くす。上〔あ〕がるときは揖〔ゆう〕するが如く、下〔さ〕がるときは授〔さず〕けられが如し。勃〔ぼつ〕 如〔じょ〕として、戦色〔せんしょく〕あり。足〔あし〕は蹜蹜〔しゅくしゅく〕として、循〔したが〕うこと有るが如〔ごと〕し。享礼〔きょうれい〕には容色〔ようしょく〕 有り。私〔わたくし〕に覿〔まみ〕ゆるには、愉愉〔ゆゆ〕 如〔じょ〕たり。




《現代語訳》


(あるお弟子さんが、次のように仰られました。) 


(君命で他国を訪問されるため)孔先生が圭をお持ちになるとき、(その圭は天子より自分の主君に与えられたものであり、主君の代理としてそれを預かってきているわけなので)身体を曲げられ、その圭の重さに耐えられないというほどの感じで謹みを表された。




(その圭は、手を心臓あたりの高さにしてお持ちである。進退のとき、たとい少し上下したとしても、)圭が上がるときに、(両手を拱〔こまね〕き)〔ゆう〕するときに上がるくらいであり、下がるときは、(人に手から手へと)物を渡すくらいの高さであった。

(他国の国君と面会するのであるから謹みのため)顔つきが変わり、畏〔おそ〕れ敬〔うやま〕い戦〔おのの〕くような感じであった。

歩まれるとき、足は小股〔こまた〕であり、摺〔す〕り足であった。




(そのようにして聘礼〔へいれい〕という訪問挨拶の公式儀式が終わったあと、土産〔みやげ〕の献上の儀礼である)享礼〔きょうれい〕になると、和らいだ感じとなられ、(そのあとの私礼である)私覿〔してき〕のときは、くつろいで楽しげな様子になられた。



《雑感コーナー》 以上、ご覧いただき有難う御座います。尚、現代語訳ならびに以下の(注)については、加地伸行先生の「論語」全訳注より引用させていただいております。

(注1)「圭」は、諸侯が王から国に封ぜられるとき、そのしるしとして与えられるもの。ただし、公・候・伯・子・男という五階級の爵位によって区別がある。公式に他国に臣下うぃ使者として派遣するとき、代理として圭を持たせ、信任を表わす。
(注2)「勃如」は、急に顔つきが変わる。
(注3)蹜蹜」は、両手で圭を持っているので、裳〔しょう〕はかま)のすそを手でつまんでかきあげて歩くことができない。すると大股で歩くと、すそを踏んで顚倒〔てんとう〕しかねないので、小股で歩く。そのさまを表わす。それは同時に謹んでいることにもなる。
(注4)「循」は、足を進めるとき、指を含む足裏の前半は挙がるものの、後半の踵〔かかと〕は挙げずに地上を曳く感じで進む。そのときの、地に循〔したが〕う感じを指す。日本で言う、いわゆる摺り足。
(注5)「私覿」は、私くしの立場で覿〔まみ〕えること。



※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考


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