ゆぅすけです。
11月3日といえば昭和21年、日本国憲法が公布された日であります。(施行されたのは半年後の昭和22年5月3日。)
今回は、この日にちなんで憲法について自分なりにあれこれ考えてみたいと思いますが、まず、憲法とは一体何なんだ?ということから始めなければなりません。
基本中の基本ともいうべき憲法の意義というものを、きちんと理解出来ていなければ、とんでもない方向へと陥ることにもなりかねません。
近年、自民党や旧維新の党の議員さんたちが、憲法改正の必要性を訴えているということは、衆知の通りであります。
そして、こうした訴えに対し、メディアや日教組や日弁連(日本弁護士連合会)などは、独自で憲法を定義し、それを広く国民に刷り込ませようとしています。
『憲法とは、国民が国家権力を制限する法である。』
まさに米国型の憲法定義であるとしか言えません。
平和主義・国民主権・基本的人権、どれも米国型であり、さすがはGHQ主導の押し付け憲法であると言わざるを得ません。
そのような定義を否定はしませんが、肯定もしません。だって敗戦国なんですからね。
押し付けられても文句は言えない・・・。
しかしながら戦後70年も経ち、そろそろ本気で独立した国家を目指していかなければならないと思うのであり、日米安保がそうでありますように、自民党や旧維新の党が訴える憲法改正の必要性も多分にあるものと考えます。
そうした考えにより、日本独自の憲法の意義というものから理解していかなければなりませんから、これもまた難儀なことであります。
わが国の憲法の柱ともいうべき、平和主義・国民主権・基本的人権の尊重ではありますが、文言自体は立派だと思います。しかし問題なのはその中身であります。
これまで私は、平和や人権の尊重というものを深く考えてまいりました。
そして、それまで想い浮かべていた平和や人権の尊重というものが、間違いであったことに気付かされました。
1、平和とは戦争を放棄することではない。
2、権利とは義務を果たした者にのみ与えられる。
メディアや日弁連や日教組などは、間違いであった平和や人権の尊重というものを繰り返し、延々と世の中に発信し続けています。
そして一番厄介なのが、国民主権という文言であります。
立憲主義の要であり、民主主義の最大要素ともいうべき国民主権は、メディアや日弁連や日教組などの煽動により、国民を間違った方向へと導こうとしているのです。
市民団体(過激な右・左翼系)と称した国民または外国人が、デモや街宣活動を行い、わが国の国家独立・存立の弊害となり、新たな国家権力を握ろうとしています。これを革命運動といいます。
正しい教育方針、報道内容、法の下の平等であれば、国民は国家の重要性を知り、真の平和や人権の尊重の意味を知ることが出来たのでしょうが、個人の自由や表現の自由ばかりを重視した結果、個人の利益や権利ばかりを尊重した国民で溢れかえることを目的としたメディアや日弁連や日教組などの煽動行為は、まさに私たち日本国民からすれば悪の枢軸ともいえます。
憲法とは何なのか?の前に、平和とは何なのか?権利とは何なのか?自由とは何なのか?
これらを熟知しない限りは、憲法の意義を理解することは出来ません。
憲法とは、国民ひとりひとりが心構え、そして政界や財界へと発展させ、あらゆる日本社会の中で、遵守するものであります。
さぞかし米国様も、押し付けた憲法とはいえ、戦後70年も過ぎたにもかかわらずに、一文一句変えられることもなく、いつまでもたっても核の傘であぐらをかいていようとは・・・夢にも思わなかったでしょうね。
11月3日といえば昭和21年、日本国憲法が公布された日であります。(施行されたのは半年後の昭和22年5月3日。)
今回は、この日にちなんで憲法について自分なりにあれこれ考えてみたいと思いますが、まず、憲法とは一体何なんだ?ということから始めなければなりません。
基本中の基本ともいうべき憲法の意義というものを、きちんと理解出来ていなければ、とんでもない方向へと陥ることにもなりかねません。
近年、自民党や旧維新の党の議員さんたちが、憲法改正の必要性を訴えているということは、衆知の通りであります。
そして、こうした訴えに対し、メディアや日教組や日弁連(日本弁護士連合会)などは、独自で憲法を定義し、それを広く国民に刷り込ませようとしています。
『憲法とは、国民が国家権力を制限する法である。』
まさに米国型の憲法定義であるとしか言えません。
平和主義・国民主権・基本的人権、どれも米国型であり、さすがはGHQ主導の押し付け憲法であると言わざるを得ません。
そのような定義を否定はしませんが、肯定もしません。だって敗戦国なんですからね。
押し付けられても文句は言えない・・・。
しかしながら戦後70年も経ち、そろそろ本気で独立した国家を目指していかなければならないと思うのであり、日米安保がそうでありますように、自民党や旧維新の党が訴える憲法改正の必要性も多分にあるものと考えます。
そうした考えにより、日本独自の憲法の意義というものから理解していかなければなりませんから、これもまた難儀なことであります。
わが国の憲法の柱ともいうべき、平和主義・国民主権・基本的人権の尊重ではありますが、文言自体は立派だと思います。しかし問題なのはその中身であります。
これまで私は、平和や人権の尊重というものを深く考えてまいりました。
そして、それまで想い浮かべていた平和や人権の尊重というものが、間違いであったことに気付かされました。
1、平和とは戦争を放棄することではない。
2、権利とは義務を果たした者にのみ与えられる。
メディアや日弁連や日教組などは、間違いであった平和や人権の尊重というものを繰り返し、延々と世の中に発信し続けています。
そして一番厄介なのが、国民主権という文言であります。
立憲主義の要であり、民主主義の最大要素ともいうべき国民主権は、メディアや日弁連や日教組などの煽動により、国民を間違った方向へと導こうとしているのです。
市民団体(過激な右・左翼系)と称した国民または外国人が、デモや街宣活動を行い、わが国の国家独立・存立の弊害となり、新たな国家権力を握ろうとしています。これを革命運動といいます。
正しい教育方針、報道内容、法の下の平等であれば、国民は国家の重要性を知り、真の平和や人権の尊重の意味を知ることが出来たのでしょうが、個人の自由や表現の自由ばかりを重視した結果、個人の利益や権利ばかりを尊重した国民で溢れかえることを目的としたメディアや日弁連や日教組などの煽動行為は、まさに私たち日本国民からすれば悪の枢軸ともいえます。
憲法とは何なのか?の前に、平和とは何なのか?権利とは何なのか?自由とは何なのか?
これらを熟知しない限りは、憲法の意義を理解することは出来ません。
憲法とは、国民ひとりひとりが心構え、そして政界や財界へと発展させ、あらゆる日本社会の中で、遵守するものであります。
さぞかし米国様も、押し付けた憲法とはいえ、戦後70年も過ぎたにもかかわらずに、一文一句変えられることもなく、いつまでもたっても核の傘であぐらをかいていようとは・・・夢にも思わなかったでしょうね。