【朝鮮半島】 神秘の国・北朝鮮を考える
■ 北朝鮮の教育と経済規模の拡大
一時期、在日本朝鮮学校への運営費や授業料に関して、日本の税金等が投入されていたとし、それに反対するデモが行われていたことは、保守・右翼と称する日本人にとっては記憶に新しい出来事だったと思う。その後は、ヘイトスピーチ法という悪法が成立されてしまい、過激なデモも鳴りを潜めてしまったわけだが、結局のところ、日本人にとってはマイナスの結果に終わってしまった、と思うようになった。
また、その所在が日本の国内に存在しながらも、反日教育を徹底して教育しているという点においても、当時のデモ隊の人たち、またそれを支持していた人たちは許せなかったのだろう。かくゆう私自身も、そんな一人ではあったわけだが。
しかしながら、大阪に住みだすようになり、朝鮮学校のバスに乗っている少年・少女の表情を見ていると、「この子ら、そんなに悪い子か?」とも思うようになり、「日本の子どもらと、なんら変わらんわな~」と、自分自身に言い聞かすようにもなった。
そんな折り、朝鮮学校出身の知人も出来、太刀魚釣りを共にしたり、また、ふと入った喫茶店のママさんが、朝鮮学校出身者(=帰化)で、何度か通っているうちに、私に対して好感(と勝手に思い込んでるかも)をもっていただき、在学中のことやらを色々と話してくれるようにもなってくれた。まぁ、一年ほど過ぎたころ、日本人男性と結婚され、お店は閉店されてしまったので、いまは音信不通の状態ではあるが。
そんなわけで、私自身というのは保守系の人からみれば珍しい存在だと思われるかも知れないが、朝鮮人、シナ人、そして日本人に対して、反日教育や自虐史観教育というものを、押し付けた者たちこそが、本当の意味での巨悪であり、現在のいわゆる慰安婦問題や拉致問題、その他数えればキリがないほどの諸問題を生み出した張本人らに対してのみ、激しい憤りの念を覚えるわけで、何も普通に暮らす人々を忌み嫌うこともない、と、こういうふうに思うのである。
ましてや、現在の南朝鮮(=韓国)のような、昭和40年の日韓基本条約を反故とし、何か物をいえば直ぐに賠償請求に訴える、というお粗末さもなく、おそらくは、平成12年に共同声明を発した日朝国交正常化宣言の中身を忠実に守ろうとしているのが、北朝鮮側であるということ、そして、日朝国交正常化を快く思わない者たちも少なからず存在したであろうし、近年稀にみる日朝関係の悪化は、そんな者たちの企みから派生したものではないだろうか、とさえ思えてくる。
さて、かなり余談が長くなったわけだが、現在の北朝鮮の子どもたちをめぐる学校教育…。その主体となっているのが、主体(チュチェ)思想である。その中身というのは、経済的にも軍事的にも、巨大な帝国には到底及ばない弱小国家が、あらゆる闘争からその身を守り、生き残るための最たる手段として、且つ、最も効率が良いとされている政治思想である。
簡単にいえば、大日本帝国下における子ども教育の、そのまた上をいく教育方針と考えた方がいいのかも知れない。何にせよ、金一族を日本の皇室のように位置付けし、最高指導者は絶対神であるということ、そして、その絶対神こそが唯一の思想であり、人民には思想・信条の自由は与えない、とする、究極の唯物史観教育である。早い話が、人民には思想・信条の自由が与えらていないので、当然のことながら "国教" というものも存在しない(=国家無神論)。この点が大日本帝国下における子ども教育とは、全く異なったところだといえる。
しかしながら、例え学校教育が主体思想を基としているとは言いつつも、おそらくはその家々では伝統的宗教に基づいた親からの "しつけ" というものが施されている可能性も否定できないわけで、その実態は不明ではあるにしても、しかし、伝統的宗教というものが心のどこかに根付いていなければ、決して親兄弟を敬うこともできないだろうし、また、友人や仲間たちと助け合う、という感情すらも培ってはこないはずである。
さらにいえば、こうした親兄弟・子どもに対する想いや、仲間と助け合うという意識がなければ、 "労働" という面において、自分は国家の奴隷となって汗を流しているのか?、それとも、妻や子どものために労働し汗を流しているのか?、という自己基準さえも不明瞭なままに陥ってしまう。このことからも、人民らの、奴隷という意識では到底、人々は本気で汗を流そうとはしない、結果、国家の経済自体が伸びていかない。しかし、家庭を思い労働するのであれば、人は我武者羅になって汗をかく。結果、国家の経済は伸びていく。至極、簡単な話しである。
闇雲なまでの主体思想の押し付け教育ばかりでは、国家の繁栄は望めないということの検証は、恐らく北朝鮮首脳部も出来ているであろうし、北朝鮮政府が掲げる5カ年計画の中身には、とにもかくにも人民らの勤労意欲を沸き立たせるための政策が並べられているのではないだろうか。
人は何のために学び、何のために働き、何のために税を納めるのか。これは国家と国民が主体となった経済政策の基本であり、国家と国民がこれらを意識してこその経済発展である。そして、このことを現実に実践しているのが現在の習近平政権であり、金正恩主席もこのことは重々承知していることであろう。
なにより、これまでの主体思想によって "人民個人" としての能力は、たしかに優れた逸材が揃っていることであろう。しかし、いざ、助け合うという気概がなければ何事も成就はしない。
尚、こうしたことの修正というものがもし仮に、早い段階で出来ていたとするならば、人民の民度はかなりといって優れていることを意味し、北朝鮮における経済規模の拡大については、もはや時間の問題だ、ともいえるのではないだろうか。
今回、北朝鮮における子ども教育を考えたとき、戦後の自由主義陣営が掲げてきた『個人の尊厳第一主義教育』も、北朝鮮における『個人崇拝第一主義教育』も、結局のところ、行き着く先は同じ(=共に経済が疲弊する)であるということが、何だか分かった気がする。よって、現在の日本社会において、学校における子ども教育の在り方や、家庭内における "しつけ" など、改めて考え直してみたくなった。そして、宗教の在り方などについても…。
つづく・・・