和貴の『 以 和 為 貴 』

『学び、伝える』といふこと

ゆぅすけです。

今回は戦前、国民学校国語教科書「初等科国語」に明記されてました文面を紹介させていただきたいと思います。

『学び、伝える』というものがどういうものであったか?
  
師と弟子とは、どういう関係でなければいけないのか?

現代日本人が忘れかけていた"何か"を感じて頂けましたら、これ幸いであります。

ではでは・・・。


孔子と顔回

   一
「 ああ、天は予(よ)をほろぼした。天は予をほろぼした。」

七十歳の孔子は、弟子顔回の死にあつて、聲をあげて泣いた。

三千人の弟子のうち、顔回ほどその師を知り、師の教えを守り、師の教へを實行することに心掛けた者はなかつた。

これこそは、わが道を傳へ得るただ一人の弟子だと、孔子はかねてから深く信頼してゐた。その顔回が、年若くてなくなつたのである。

「ああ、天は予をほろぼした。天は予をほろぼした。」

まさに、後繼者を失つた者の悲痛な叫びでなくて何であらう。
   
   二
十數年前にさかのぼる。孔子が、弟子たちをつれて、匡(きやう)といふところを通つた時、突然軍兵に圍まれたことがある。
 
かつて陽虎(やうこ)といふ者が、この地でらんばうを働いた。不幸にも、孔子の顔が陽虎に似てゐたところから、匡人は孔子を取り圍んだのである。
 
この時、おくればせにかけつけた顔回を見た孔子は、ほつとしながら、
 
「おお、顔回。お前は無事であつたか。死んだのではないかと心配した。」
 
といつた。すると顔回は、
 
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」
 
と答へた。
 
孔子は五十餘歳、顔回は一青年であつた。
 
わが身の上の危さも忘れて、孔子は年若い顔回をひたすらに案じ、また顔回は、これほどまでその師を慕つてゐたのであつた。
   
   三
それから數年たつて、陳(ちん)・蔡(さい)の厄があつた。孔子は楚(そ)の國へ行かうとして、弟子たちとともに陳・蔡の野を旅行した。
 
あいにくこの地方に戰亂があつて、道ははかどらず、七日七夜、孔子も弟子も、ろくろく食ふ物がなかつた。
 
困難に際會すると、おのづから人の心がわかるものである。
 
弟子たちの中には、ぶつぶつ不平をもらす者があつた。き一本な子路が、とがり聲で孔子にいつた。
 
「いつたい、徳の修つた君子でも困られることがあるのですか。」
 
徳のある者なら、天が助けるはずだ。助けないところを見ると、先生はまだ君子ではないのか──子路には、ひよつとすると、さういふ考へがわいたのかも知れない。孔子は平然として答へた。
 
「君子だつて、困る場合はある。ただ、困り方が違ふぞ。困つたら惡いことでも何でもするといふのが小人である。君子はそこが違ふ。」
 
子貢(しこう)といふ弟子がいつた。
 
「先生の道は餘りに大き過ぎます。だから、世の中が先生を受け容れて用ひようとしません。先生は、少し手かげんをなさつたらいかがでせう。」
 
孔子は答へた。
 
「細工のうまい大工が、必ず人にほめられるときまつてはゐない。ほめられないからといつて、手かげんするのが果してよい大工だらうか。君子も同じことだ。道の修つた者が、必ず人に用ひられるとはきまつてゐない。といつて手かげんをしたら、人に用ひられるためには、道はどうでもよいといふことになりはしないか。」
 
顔回は師を慰めるやうにいつた。
 
「世の中に容れられないといふことは、何でもありません。今の亂れた世に容れられなければこそ、ほんたうに先生の大きいことがわかります。道を修めないのは君子の恥でございますが、君子を容れないのは世の中の恥でございます。」
 
このことばが、孔子をどんなに滿足させたことか。
    
   四
孔子は、弟子に道を説くのに、弟子の才能に應じてわかる程度に教へた。 
 
孔子の理想とする「仁」についても、ある者には「人を愛することだ。」といひ、ある者には「人のわる口をいはないことだ。」と説き、ある者には「むづかしいことを先にすることだ。」と教へた。
 
いづれも「仁」の一部の説明で、その行ひやすい方面を述べたのである。
 
ところで顔回には、「己に克(か)つて禮に復(かへ)るのが仁である。」と教へた。あらゆる欲望にうちかつて、禮を實行せよといふのである。その實行方法として、「非禮は見るな。非禮は聞くな。非禮はいふな。非禮に動くな。」と教へた。
 
朝起きるから夜寝るまで、見ること、聞くこと、いふこと、行ふこと、いつさい禮に從ひ、禮にかなへよといふのである。
 
ここに、「仁」の全體が説かれてゐる。さうして、顔回なればこそ、この最もむづかしい教へを、そのまま實行することができたのである。
   
   五
 
孔子は顔回をほめて、
 
「顔回は、予の前で教へを受ける時、ただだまつてゐるので、何だかぼんやり者のやうに見える。しかし退いて一人でゐる時は、師の教へについて何か自分で工夫をこらしてゐる。決してぼんやり者ではない。」
 
といつてゐる。また、
 
「ほかの弟子は、教へについていろいろ質問もし、それで予を啓發してくれることがある。しかし、顔回は質問一つせず、すぐ會得して實行にかかる。かれは、一を聞いて十を知る男だ。」
 
ともいつてゐる。
 
孔子がよく顔回を知つてゐたやうに、顔回もまたよくその師を知つてゐた。顔回は孔子をたたへて、
 
「先生は、仰げば仰ぐほど高く、接すれば接するほど奥深いお方だ。大きな力で、ぐんぐんと人を引つぱつて行かれる。とても先生には追ひつけないから、もうよさうと思つても、やはりついて行かないではゐられない。私が力のあらん限り修養しても、先生は、いつでも更に高いところに立つておいでになる。結局、足もとにも寄りつけないと感じながら、ついて行くのである。」
 
といつてゐる。
 
顔回なればこそ、偉大な孔子の全面を、よく認めることができたのである。
    
   六
「先生が生きていらつしやる限り、どうして私が死ねませう。」
 
といつた顔回が、先生よりも先に死んでしまつた。
 
ある日、魯(ろ)の哀公(あいこう)が孔子に、
 
「おんみの弟子のうち、最も學を好むものはだれか。」
 
とたづねた。孔子は、
 
「顔回といふ者がをりました。學を好み、過ちも二度とはしない男でございましたが、不幸にも短命でございました。」
 
と答へた。

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