1997年7月1日、それまで英国領だった香港がシナ(=中国)へ返還(=主権移譲)されることになり、アヘン戦争以来、実に150年余しに渡る英国からの植民地支配の歴史に、終止符が打たれることになった。
その後、英国の植民地時代と同じ民主主義体制を継承し『香港特別行政区政府』を樹立、且つ、シナ中共政府下での『一国二制度』という、なんともややこしい政治体制に措かれることにはなったが、それまでの世界有数の商業都市・貿易都市を活かしながら、大発展していくことになる。
現在の人口は750万人(※ウィキペディア)とあるが、私が少年期に目にした母が学生時代だった頃の学校教材『地理』(昭和30年代版)の中では、たしか300万人程だったと記憶しているので、それと比べてみても人口増加率は爆発的といってよいだろう。
■ 英国植民地時代のシナ系香港人
(英国統治下での香港旗)
さて、そんな香港ではあるが、植民地時代に生きたシナ系香港人にとってすれば、相当に苦しい時代だったのではないかと思われる。
魯迅(ろじん)という有名な思想家が当時の香港について、「今日の循環日報から二つの日常を知った。まずは、香港で一目瞭然なのはシナ人が今も鞭で打たれていること。次は、身体検査を巡る悶着が香港でよく見かけることである。」と語っている。また、香港大学の学者(歴史学専攻)ジェラルド・ホーン氏は、「英国が香港を統治していた1997年までの全期間を通じて香港社会には、一種の隔離制度があり、シナ人は三流住民と見られていた。」と、シナ系メディアに対し語っている。
さらに、英国人学者ジョン・ロス氏も、「英国人は香港を150年以上も統治したが、(シナ系)香港人に指導者の選出を許したことは一度もなかった。いかなる形式の選挙もなかった。」と語り、同じ英国人学者キース・ホプキンス氏は、「香港は残酷な社会だった。貧乏人が援助を得られることはまずなかった。」と書物に残しているという。
また、現代を生きる我々日本人にとっても、植民地時代の香港との繋がりは深く、大東亜戦争(=太平洋戦争)時においても、旧日本軍が香港を統治下に置くなど、貧しかった頃の香港については話題が尽きないのではないだろうか。
(映画「燃えよドラゴン」から1970年ごろの香港の様子が窺い知ることができる)
(TVアニメ「じゃりン子チエ」の中でも香港が取り上げ放送されている)
■ 香港暴動の導火線となった事件
2018年2月、香港住民だった陳同佳(当時19歳)が、交際相手であった潘暁穎氏(当時20歳)と台湾へ旅行し、その際、宿泊先の台北市内のホテルで口論となり潘氏を殺害し、遺体を棄て、香港へ逃げ戻った。
陳 同佳
しかし、陳同佳の身柄を拘束した香港当局は、殺害事件が台湾で発生したために、陳を起訴することができない、という現象が起こってしまった。つまりは、台湾政府と香港政府との間で、犯罪人引渡し条約が結ばれていなかったというのだ。
結局のところ、陳同佳を『殺人に起因する資金洗浄の罪でしか判決を下すことができなかった。 』『懲役29ヶ月の判決を受け、2019年10月23日に釈放された 』(※ウィキペディア)として、今なお、殺人罪には問われていないという。
また、並行して台湾当局も陳同佳を殺人と死体遺棄の罪で起訴しようとはしたが、香港・台湾双方の思惑が一致せず、未だ陳を殺人罪で裁くことができずにいるという。
つづく・・・