日々草創

「清く、楽しく、気持ち良く」、、、アホのままでもいいんです。

写真家トーノユタカ

2009-05-27 | 日記
普段アホな事ばかりで盛り上がっている僕ではあるが、こう見えてもいちおう写真家である。

自宅に暗室を作り、自家現像研究会「New Collar」と称したアマチュア写真家チームを結成して愛知芸術文化センターを始めとした各地で写真展なども開催。コンテストなどには出品しなかったものの、全盛期には日本写真協会の方々から賞賛され、駆け出しにも関わらず雑誌などの「オススメギャラリー」で紹介されるなどをして来客数も多く、ファンになってくれた人達も少なくはなかった。
しかし、あまりの向上心の無さから何となく衰退し、廃墟写真のブーム到来などで何故かモチベーションも急降下。
いつしか写真展の数も減り、ファンになってくれた方々を裏切ってしまうが如く、他の遊びへ夢中になっていってしまったのである。
それ以来、僕はファインダーを覗く事さえ少なくなっていってしまった。。

そんなダメダメ経歴ではあるのだが、不思議と未だにファンがいて、僕を「師匠」と持ち上げてくれている写真家も何故か数名いたりする。

そのような方々が勝手に僕をヨイショしていたからなのか、半年ほど前に再びカメラを手にする機会が訪れた。

去年、文芸社から出版された一冊の詩集。

『きみがすき。それだけで いい?』
そらsora/著 ・ トーノユタカ/Photo

なんと、恋愛写真詩集です。

僕は以前から上部にアップした写真のように、モノクロの廃墟写真や工場写真など、とても一般ウケするような写真など撮っていなかった。
自分で言うのはなんだが、ちょっぴりマニアな一部の変態が喜ぶような写真ばかりだ。

そんな僕に、なぜこのようなオファーが来たのか?

はい、この詩を書いたのが、そのちょっぴり変態な女の子だったからです。

正直、僕はポートレートやポップなイメージのアイデアなど持ち合わせてないが故に、恋愛詩集などというこのオファーを渋っていた。
しかし、詩の内容を読んで気持ちは一変。
「yes」と言わされたのである。

簡単に言ってしまえば「女好きの男に夢中になってしまった一人の女の子」という図式が成り立ってしまうような「イタい恋愛」を綴っている詩の数々。
しかしその中に書き綴られた言葉には、一人の女の子の想いが痛いほどリアルに書き込まれ、それら一つ一つが僕の心へ深く響き渡った。
詩に詳しい訳ではないのだが、とにかく「すごい」と思わされたのだ。

読み終わった僕は、言葉が出なくなっていた。
もしそのとき無理矢理に言葉を発していたならば、soraに対して「今日のパンティー何色?」ぐらいに訳の分からないセリフを吐き、田代まさしの様になっていたに違いない。
なんせ僕は緊張すると下ネタが出るヘキがある。
そんな事はどーでもイイとして・・・
とにかく僕はその時“こんなに素晴らしい物を引き出しの奥に入れておくのは非常にもったいない”とまで思ったのだ。

しかし文芸社といえば、現在話題になっている「A型自分の説明書」などの血液型別自分の説明書シリーズなど、数々の話題作を生み出す出版元。
しかもその審査に厳しいハズの文芸社から、簡単に書籍化が決定したほどの代物だ。
いや、きっとその詩を見せられたら、よほどの人ではない限り審査をパスするだろう。
それほどまでに、心に響く詩なのだ。
僕なんかで良いのだろうか?

まぁ、なにはともあれ、それから野となれ山となれ。
僕はその詩が少しでも彼女の想う理想的なカタチになるよう、その詩を心に刻み、錆び付いた腕を解しつつファインダー越しにsoraを追った。
そして自分が持つ全てのセンスで、詩の中にいるsoraの映像をネガに刻み込んだ。

そして、ついに出来ました。
予想以上の出来です。
さすがsora。

幼くもあり、それでいて大人になろうとする何の変哲もない24歳の女の子が体験する一つの恋愛。
現実を知りつつも、純粋な心に揺れ動く様々な葛藤の中で、彼女は何を想い、どう生きようとするのか。
そんなsoraが過ごしたひとときの気持ちが、現在の女の子の持つ大胆で荒削りな感性によって、とてもリアルに表現されている。

うん、ヤバいです。

と、ここまで書いておいてなんですが、さきほどアマゾンで検索してみたところ、在庫があと2冊しかないとの事です・・・


欲しい人は頑張って探してみて下さい。
ちなみに、、僕の所に数冊残っていますよ。。

どーでもいいですね・・・

美しき戦い

2009-05-25 | 日記
すっかり陽が長くなり、遊び心をくすぐられてしまう今日この頃。
その過ごしやすさのせいか、ここ最近なんだか気持ちが疼きぎみになってしまう。

そんな心も弾む日没の頃、密かに熱い闘志を燃やす男子高校生を目にした。

愛車のラシーンに乗り、長く緩やかな下り道が続く農道を走っている時だった。
前方には自転車に乗った一人の男子高校生。
もうすっかり陽も落ちはじめて暗くなりつつにも関わらず、フラフラと今にも停まってしまいそうなスピードで自転車に乗っている。
じっくり見てみるとペダルには足を乗せておらず、まるで体育座りをするかのように前輪手前のフレーム部分に両足を乗せ、自転車が停まってしまわないよう一生懸命に前後へ身体をゆすりながら少しずつ前進をしている。

そこは長い距離にわたり、緩やかな下りこう配が続く場所。
恐らく彼は、下りが始まる地点から「どこまで足を着かずに進めるか?」という密かな挑戦をしているのだろう。

彼の心の中にあるルールは、こうだ。
・ペダルに足を掛けたら失格。
・足を地面に着いても失格。
・もちろん転んでも失格。

きっと、その先にある下り坂が終わるだろう交差点までを真剣に戦っているに違いない。

ちょっとした疑問に対し、純粋な気持ちで真剣に取り組む姿勢。
なんだか忘れていた何かを思い出させてくれたかのような気持ちになった。
僕は彼に心の中で熱いエールを送り、ゆっくりと抜き去った。

そんな彼に感謝をしつつ車を走らせていると、その前方200m程の場所で、先程と同じブレザーを着た男子高校生がヘッドライトに映り込んだ。


同じ事をしている。


どうやら二人でレースをしていたようだ。

「あぁ・・・美しい・・・・」

その光景を目にした瞬間、今まで漠然と僕の心の中にあったわだかまりが、一瞬にして吹き飛んだ。
こんなに美しい戦い、久しぶりに観戦したのだ。

年齢を重ね、あらゆる社会に揉まれて大人になった現在、様々な汚く、醜い争いにさらされて生きている。
争いは避けて通れない。
それは解っている。
しかし、そんな争いを純粋に楽しんでいた過去が僕にもあったハズだ。
そんな原点に触れた瞬間、僕の目からは涙が溢れ出した。

「足を着いたら負け」

男の原点は、きっとここにあるのだろう。。

フェチ

2009-05-24 | 日記
日に日に暑さが増し、夏の太陽が見え隠れする今日この頃。
そんな暖かさにつられてか、街角を行き交う人々の中にはノースリーブ姿の女性さえも見かけるようになった。
二の腕フェチの僕にとっては、とても喜ばしい光景である。

人はそれぞれに思いもよらぬモノや場所でドキドキするもので、それはその人の勝手である。
脚フェチ、尻フェチ、制服フェチ、あごフェチ、血管フェチなど、それは多種多様に存在するだろう。
まぁ、いってみればチョットした変態である。
しかし、それらはどんなに真面目な人であっても間違いなく存在する変態な部分であり、人に迷惑さえかけなければ公言しても許される変態。
それが“フェチ”なのである。

先日、男女を交えた数人で飲みに行った先で、そんなフェチについて盛り上がった。
そこでは僕の二の腕フェチをはじめ、巨乳フェチ、足フェチなど、様々なフェチに関する討論が繰り広げられ、熱のこもった意見交換が交わされていた。
そしてそんな中、可愛らしくて小悪魔的な女の子“Kちゃん”が少し変わったフェチだという事が判明したのだ。

何フェチかというと、


「ガムテープ」


なんでも以前に付き合っていた男性が非常にサディストで、SEXをする時にKちゃんの体をガムテープでグルグル巻きにして性感帯を刺激しまくるというプレイをしていたそうだ。
それ以来、ガムテープを見るだけでドキドキしてしまうという。

今現在はその彼とは縁がないそうなのだが、新しい彼が出来た時にそのガムテーププレイをしてほしいが為に何気なくその彼へ「そんな事する人って、どう思う?」と、聞いてしまったりするそうだ。
そしてもし「ありえねぇ」などという返事が返ってきた時には「あぁ、この人とはもう終わりだ・・・」などと結論を出してしまう程の重大なフェチになってしまっている。
それぐらいの“ガムテープフェチ”なのだ。

もし筋肉フェチな女の子なら、マッチョな男性を見つけたらトキメいてしまうだろう。
逆にガリガリで貧そな男性には見向きもしないに違いない。
メガネフェチな子なら、メガネ姿にドキッとしてしまったりするものだ。


ガムテープ?


いくら他人に理解されなかったとしても、特に誰かに対して迷惑をかけている訳ではないし、それが好きなのだから仕方無い。
誰が何と言おうと、Kちゃんはガムテープがお好きなのだ。

人はそれぞれに思いもよらぬモノや場所でドキドキするもので、それはその人の勝手。

それが、フェチなのである。

幸せの法則

2009-05-20 | 日記
人は誰でも幸せになりたいと思っている。

そんな事は当たり前の事であって、誰もが簡単に幸せになれれば争い事もないだろうし、自ら死を選ぶ人もいないだろう。
なにより“幸せ”という言葉自体なくなってしまうに違いない。
ではどんな違いで、幸せな人と不幸な人に分けられてしまうのだろうか。

現状の社会で、不治の病を煩っている訳でもなく、容姿・体型や、親族・友人が世間一般的で、仕事・年収が平均的だったとしても、その現状を幸せと思う人と、それだけでは幸せじゃないと思う人がいる。
ようするに、それら全ては物質的・環境的な問題ではなく、全て心の中の問題だといえよう。
よって、どんな状況下だったとしても、それを幸か不幸か左右するのは、その現状を“楽しい”と思うか“楽しくない”と思うかに掛かっているのだ。

しかし厄介な事に、人は何をする時でも最初はネガティブな方へ考えてしまうもの。
人間には地球上のすべての生物が持っている本能のほかに“理性 ”という物があり、その理性によって様々な物事を考え、未来の事までも予測し行動する事が出来る。
本能だけでその現状を全て受け入れてしまえば何も恐くはないのだが、その先で失敗した時の恐さを予測してしまい、その不安によって行動に移せなくなってしまう。
そして人間らしい人ほどその理性が過剰に働き、もっと先まで考え、もっと不安になり、俗にいう“ネガティブ・シンキング”ってやつに陥ってしまうのだ。
“楽しい”と、考える状況が出来なくなってしまう根源である。

それ等をポジティブに変える為には、その「不安」自体を根本で変えてしまう必要がある。
ネガティブな状況から「楽しい」と考えを変える思考。
ポジティブ・シンキングである。


以前、僕の親友に脳の発育が進まない病気の息子“コウちゃん”が生まれた。
それは奥さんが妊娠して幸せ絶頂期だった頃、エコー診察によってその病気が発覚したのだった。

二人は産まれるまでの間、大きな不安と少しの希望で時を待っていた。
しかし案の定、生まれた子供は鼓動が弱く、顔を見る間もなく集中治療室へ直行してしまったのだ。
長きに渡る集中治療によって数カ月後には無事退院できたものの、その後も幾度となく手術を繰り返し、少しずつだがコウちゃんの成長の妨げとなるべく原因の治療を続けていた。

しかしそのような子供の殆どは脳が発育せず、寿命が短い事を二人は知っていた。
でも諦める事なく、少しでもコウちゃんの身体が良くなるよう二人は最善の努力を惜しみなく注いでいたのだ。
退院して家にいる時は、泣くだけで鼓動が乱れて命の危険があるくらい一時も目が離せない。
当然、遊びに外出する事はおろか、寝る事さえもままならない状況。


そんな話を聞いた時、誰もが不憫に思い、哀れんでしまうだろう。
実際に僕も当初はそのような気持ちを持っていた。
しかし、幾度かその家族と接しているうち、そのような考え方は間違っているのだと気付き始めたのだ。

二人にしか判らないだろうコウちゃんの喜んでいる仕草。
しかしそれが僕にも判ってきた頃、その喜ぶ仕草を引き出す為に夢中になっている二人の存在に気が付いた。

そしてコウちゃんが喜んでくれた時、気付けば僕も一緒に喝采していた。

コウちゃんが喜んでくれるのなら、寝るのも惜しまない。
コウちゃんが喜んでくれるのなら、他に何もいらないのだ。

そんな日々が続いていたある日、突然コウちゃんはこの世を去った。
訃報を聞いて僕が駆け付けたときコウちゃんはまだ暖かく、親友の膝枕でいつもよりもずっと安らかに眠っているようだった。
その時、コウちゃんは5歳だった。

もし2人がネガティブに考えていたら、それまでの出来事は不幸もいいところだ。
しかし親友は僕にこう言った。

「コウちゃんは僕の家に幸せを運んでくれた」

僕もそう思った。
親友夫婦共々が、自分を犠牲にするのも苦にならないほどコウちゃんを愛していた。
そしてコウちゃんは他の誰よりも愛され、そのコウちゃんの笑顔に二人は歓喜した。

その家庭には、他のどこよりも多くの愛情が飛び交い、楽しさに満ち溢れていたのだ。
こうして、3人は幸せになったのだ。

現状を全て受け入れ、立ち向かう事によって、全てがポジティブに変わり楽しくなる。
きっとそれはどんな事にでも当てハマるのだろう。

チーターもこう言っていた。
「幸せは歩いてこない。だから歩いて行くんだよ」

そう、幸せは待っていても訪れない。
前向きに努力を続ける事で、楽しくなり、近付ける。

その結果、幸せになっていくのだと思う。

ヨンの使い方

2009-05-09 | 日記
時代を問わず若者の間では、略語や造語など様々な言葉が生まれては消え、時代背景と共に日々言葉遣いが変化を続けている。

これらの現象は、恐らく人間が進歩を始めた頃から続いているものであり、現在に始まった事ではないのだろう。
よって「近頃の若者の言葉遣いは・・・」などという台詞は、時代の流れに取り残された年寄りの戯言と云えよう。
そんな年寄りにはなりたくないものである。

しかし、そんな時代の流行に乗り遅れまいと無理に時代に乗ろうとすれは、思わぬ怪我を負ってしまう事もある。
確かな情報、確かな流れは、常に持ち合わせておく必要があるだろう。

先日、スマートでスタイルが良く、結構カワイイ女の子“ミーちゃん”が、こんな事を言っていた。

「なんで彼氏が出来ないんだろう・・・」

ミーちゃんは別に性格が悪い訳でもなくブスでもない。
もしろどちらかといえば、第一印象ではかなり男ウケをするほうだ。
ではなぜ彼氏が出来ないのだろうか?

昨日、ミーちゃんを知る男連中と遊んでいた時にその話しをしたら、ミーちゃんと結構仲が良い男子からこんな意見が出た。

「う~ん、、たぶん“ヨン”がイケナイんだと思うんだよねー」

それを聞いたもう一人の友達と僕は、胸を打たれたかのように賛同した。

「そーだ!“ヨン”だよ!」
「間違いない。確かに“ヨン”だね」

ミーちゃんは知り合いになると、まず携帯メールを打って交流を計る女の子。
僕が知り合いになった時も、まず電話より先にメールを打ってきた。


件名「今日は楽しかったよん」

本文「さっき家に着いたばっかりだよん。また誘ってよんっ。あーいうパーティー大好きだよ~ん」


確かに痛い。
内容的には、ごく普通でたわいもない文章だ。
しかし全てにおいて語尾に「よん」を付ける事で、とても喉越しの悪い文章になってしまっている。
まるで麦茶と思ってイッキしたモノが、麺つゆだったくらいに喉越しが悪い。


現代社会で携帯メールという物は欠かせないコミュニケーションの一つであって、それによりかなりのイメージが定着してしまう。
ミーちゃんの場合は、恐らくこれらのメールにより「この子はあまり面白い人ではない」というイメージがついてしまったのだろう。
よって、なかなかマンツーマンでは誘ってもらえなくなってしまったのだ。

メールなどの文章によって、ある程度の印象を他人にあたえる事ができる。
しかしそこには、時代の流れによって変化を続ける言葉の善し悪しが存在する事を忘れてはいけないのだ。