引き続きシャンソン=フレンチポップスの系譜を見ていきましょう。先ずは、1961年の優勝曲から・・・
1960年頃はフランスのポップス界にとって黄金時代と言ってもいい頃でした。日本でも盛んに「シャンソン」が歌われ、現在の日本的なシャンソンの概念が定着した頃です。ポップス界に衝撃を与え、それまでの大衆音楽の概念が覆されるビートルズの最初のヒット曲までまだ少し間がありました。
その意味ではまだトラディショナルな「歌謡」が主力であり、基本的には美声の持ち主による歌謡曲がヒットの上位を占めていたと言って良いでしょう。
ジャン=クロード・パスカルは、1927年パリの裕福な織物メーカーの家庭に生まれで第二次世界大戦に従軍し勲章を貰っています。戦争後は映画に出演しロミ・シュナイダーとも共演したそうです。「Nous les amoureux」は始めに書いたとおり、1961年のユーロビジョンソングコンテストの優勝曲ですが、フランス代表ではなくルクセンブルグの代表として出場し優勝しました。フランス代表はジャン=ポール・モリックでしたが4位に終わっています。
しかし・・・この年、特筆すべきは第5位になったイタリア代表の曲です。1959年のイタリアの曲も世界的なヒットになった「チャオ・チャオ・バンビーナ」でドメニコ・モデューニョが歌い6位でした。1961年のイタリアの曲も、皆さんが良く知っている曲「アル・ディ・ラ」でベティ・クルティスが歌って5位でした。知っている曲だから・・・ではなく、今聞いてみて公平に評価して・・・絶対に「アル・ディ・ラ」の方が素晴らしい曲ですが・・・なんといってもイタリア語で参加するのはイタリアだけ。フランス語での参加は、フランス、ルクセンブルグ、ベルギー、スイス、モナコで人口比ではなく各国が「10票」の権利を持っているので1:5という比率になってしまう・・・からでしょうか?聞き慣れた言葉での歌に評が行くのは仕方ありませんね。
Nous les amoureux