【半休中】Beyond talk to oneself

子どもや日常、スポーツ回顧、時事の疑問に世の声の1人として触れていきます。競馬予想はあくまで履歴と仲間向けです。

【重要情報】もんじゃサクライ閉店しました 6【終】~駄菓子屋もんじゃ完全消滅

2011年12月07日 23時47分49秒 | グルメ
この画像を見れば、本当に終わったのだとわかるだろうかと。

まずはレジュメでもう少しその日までを追いかけてみる。



サクライの店先はいつもその名称(といっても苗字だが)が
書かれている程度に過ぎなかった。この画像もその証。
誰が描いたのかは重要ではなく、現在の子どもらが描いたということ。
それだけで駄菓子屋もんじゃらしさは出ているし、
そこに作者の自己アピールは要らなかった。
だからこそ店であって店でないのだからTELなんかも書かれなかった。
それはこの画像を見ても解る。
ここにTELが書かれる様になったのは多分2010年からかと。
古くても2009年の秋以降からだ。なので最近だけのこと。
(なんで長年TELなんか書かなかったのに書いてしまったのか…)

ところが店内のメニューやこの入口のものも、
誰が描いたのかサインが入れられるようになった。
それもフルネームではなく下の名前だけで常に女の子だけだったが。
その自己顕示欲が強い子どもが出現してから変わったのだ。
この入口のものもまだ新しいのに刷新されてTELが書かれた。
それを最初に見たときは気分が悪かった。
だってこれまでに既出だけど常連の証だったからね。知ってるのが。
それがこれでは道行く人誰でも解る。そんな価値が無くなった。
まるでBoφWYの渋谷公会堂での解散宣言が、
業界人の録音したものがアングラに出回って、
相当なリスクを伴って入手した友人に高額を払ってダビングしてもらい、
何があっても誰にもダビングしない約束でそれを手に入れて、
仲間に聞くのは問題ないと聞かせたらば、ダビングしてくれと当然なって
断ったら凄まじく嫌われまくり、それでも何十年も拒んできたのに
この期に及んでCD化されてしまったかのような(例え話長っ!)感じだ。
とにかくそれぐらいのショックだった。
また子どもやおばさんはネットの怖さを知らないのでこうなのだが、
私は良く知っているからそこも懸念したら、
既出の通りに無粋な一見がブログで紹介…。最悪ぢゃんな。。。
まぁ多分いたずらや頻繁のTELも無いと思うんだけど、
絶対あってほしくないのは、以下読むごとに解るかと。



実際画像も最近ではまるで撮らなくなっていた。
いい意味で代わり映えしないし、いつまでも珍しいと
一見から脱出しない自分ももう少し落ち着こうと思ったりで、
特に娘の成長を撮るのだという意味合いだけでしか撮らなくなっていった。
なので実質この2年間程度は無いのだ。
厳密には2009年に1回撮っただけで、2008年は持ち家の販売と転居などで
精神的にこっちが参っていたりとか多忙だったので、
サクライやチクに行くこと自体が相当無かったのだ。もしや0回!?
ということで2008~2011で1回しか撮ってないのだよ。
だから一番最近の状況の店内は無いのだ。
それは冒頭画像のみがついこないだのものだということになる。
ということで、多分最終的なものと変わらないだろうメニュー。
いわゆる変わったのは、昨日の話のようにチェリオが無くなっただけ。
それをラインナップから外す程度の違いと、
チクが卸をやめてからビンではなく缶の物を仕入れるのが、
その時々によって違いがあるので変わったり追記されたりだが、
主にラムネとサイダーはそのままだし、パレードの替わりにコーヒーと
これも80年代のブームのままにビンのウーロンを仕入れていたので
その代替でウーロンの缶があるだけなのだった。
今だったらブレンド茶でもあればいいのにね。でもそれでいいのだ。
結局最終的にも何も変わってなかった。
物がなくなれば代わりの飲料を扱った程度で、価格帯は何も…。



いつもの大と小だが、娘はさすがにもう大きくなってきて
次に行ったときは中にしようかといっていたのだったが、
そこから行けぬままになってしまうのだった。
というのも実は今年店を開けたのは年明けの1月上旬の数日だけ。
そこから体調を崩し、大震災を経てそのまま店を開けることはなかったのだ。
そう思うと撮ったときはいつもだったのが、結果として最後になった。



これはおばさんとともに引退を許されなかった扇風機だ。
昔ながらの常連が、そろそろ壊れそうだからと取り替えられようものなら
動いているうちはこれでいいと、頑として替えさせなかった代物だ。
昔のヤツなので子どもが指を突っ込んで怪我するタイプ。
時代を感じるが、こういう人が店をやっているのだという意味でもある。
扇風機よりも先におばさんが現役引退とは…。



ラメックだけが食いたいと買って帰ったときのもの。
このまま食ってみても、あぁラメックの味だ!とは思わない。
何故ならラメックを元々そのまま食ってたが、
最終的にはもんじゃに入れていたのだから。

ちなみに絶対ではないのだが、もしかしたらラメックを入れたきっかけ
その元祖は私らかもしれないのだ。
もちろんその土地土地でそういう人が居て、誰が早いのかは解らない。
でもラメックはベビースターの模倣であり、それよりも後発だった。
そのベビースターよりも量は少ないが半額だった。
そこが駄菓子のチョイスで効果的だったのだ。
欲しいものを予算で見繕って余った10円分とかに出来たので。

そして自分らのホームじんじゃもんじゃでラメックを入れて食う人は
全く見たことが無かった。勿論他のどこででも。
そのきっかけは一緒に行っていたあるヤツが、もんじゃが出てくる間に
ラメックを食っていたのだが、もんじゃがでてきたときに
「これ入れてみようかな?」と言ったことがきっかけで、
私らもどうなるのか気になるので、自分はしたくないけど(失敗懸念)
他人がやるなら見てみたいとして、勧めてやらせたのだ。
そしてそれを食った時に「ウマい!」と言ったことで一口貰うと
その奇跡のコラボはセンセーショナルな衝撃で、
みんなラメックを買って入れて食ったのだ。
そのときおばさんも「あんたたち何やってんの?!大丈夫?」と
心配したのだが、まさかそれがきっかけで流行るとは
思っても居なかったどころか、おばさん自体がラメック入れて量を増やすと
食べ応えもあるし味も美味しくなると、他の客にも勧めたのだ。
これがラメック入りもんじゃの私のホームでの事実であり、
ホーム以外の店に行ってもこれを繰り返したので地域に根付いて、
最終的にはみんなが当たり前にやるようになり、うちらがやりだしたものを
誰にも覚えられていないままに一気に広まり、
結果的に量も味も良くなったのだった。
そして当然ベビースターもあるのでそっちでも試したが、
既出のようにアレはしょうゆ味が濃すぎるのでウマくなく、
ラメックがあればそれ以外入れることは誰もしなかったのだ。
それだけ共通してもんじゃにはラメックが合うと誰もが思ったのだ。
その流れが今でも繋がっていて、だからこそもう市販されていないのに
そのラメックの製造を引き受けた群馬の業者に業務用として作らせてまで
それを使うことにこだわって営業されてきたのだ。
なのでユニオンソースとラメックはもんじゃには絶対欠かせないのだ。
逆にそれが無いものはもはやもんじゃではない。
もんじゃに似ている同じような食べ物。
下町の駄菓子屋もんじゃ経験者にはそんな風に一般もんじゃは
受け止められているといっても過言ではない。



思えば何度も行っていると、年も重ねるし娘も上手になってきた。
今ではほっといても全部一人で出来る。
まぁはがしに押し当ててくっつけては取れないが、
製造の仕方や食べごろの判断などは友達に教えられるほど。
そして量も食べられるようにもなってきたので、
画像のように私並にラメックが結構入っている。



これは少し失敗して長くなってしまったせんべい。
思えばせんべいも最後は大成功ではなく失敗したのが最後だった。
その画像は撮ってないのだが、こんなレベル以上にひょろながだった。
娘もせんべいは作り出していたのだが、
↑の画像のように最近は殆ど汁が残らずに、
大きさもこの半分どころか1/4程度しか物理的に作れない量だった。
しかも剥がしていくのに技術が要るのでそこはまだ全然だった。



こっちは撮影した中では最後のせんべいとなったが、
台の真ん中があまりにも火力が強くて、大きくするのをやめて
わざわざ半面だけで作ったのがこれだった。
そういう意味ではほぼ綺麗に半面使って焼けたのだった。

そういえば汚い話なのだが、一番近い普通のもんじゃ屋は
1回しか行ったことがないのだよね。
意外なことに他に気にいったところがあってなのだが、
そのうちのひとつは自宅を改装して1F全部店だった戸建てだが
それは5年程度でやめてしまって、持ち家だったのだろうに
今は更地となっている。台は5~6台入っていた。
他には同じようになっているところがあってそっちは3台だけだが
そこのほうが良く通っていた。新しいのだが持ち家の頃は
一番近かったので。それまで一番近かったもんじゃ屋は
たまたま行かなかっただけなのだが、数年前についに始めて行ったのだが、
縁が無いとはこういうことなのか、私のことなので当然切りイカもんじゃを
ベビースター4袋とともに頼んだのだが、切りイカの中に黒ゴマが見える。
4~5粒見えたがゴマとは珍しいなと思ったら、それはゴキの幼生だった。
娘に食わせる前どころか製造する前だったのでまだ良かったし、
他に客が2組居たので騒がずに静かに店主に伝えたが、
凄く顔が引きつってて、でも見慣れない一見だから
まさか10年以上もやってきたのにそんなことってあるのかと思ったようにも
見えたりしてどこか疑われているかのような空気もあって、
新しい切りイカをあけて作り直しましたと持ってきたが、
悪いから頼んだものはそれなりに食っては来たけど、
その店にゴキがやたらいて管理が悪いから入られているわけで、
それは切りイカに限ったものじゃないと思ったし、
気分悪くてすぐ帰りたかったが、同じ町のことなので我慢して食って、
当然それ以来一度たりとも行っていない店があるのだ。
そんなことを思うとサクライなどでは絶対にありえなかった。
逆にその回転率は駄菓子屋もんじゃのほうがよほど上だという証だ。



これが撮影した最後の画像となった。
娘が友達にも作り方を教えられるようになり、
最初の頃は連れて行っても2人を面倒見ないとならず
私一人だと自分の分を食ってる暇が無い状態から少し嫌だったのだが、
この頃になると元親友のナナコも数回経験したので少し出来るようになり
娘もサポートできるので私の手が楽になった頃だった。
そして2人で帰り際にドリンクを買ってピースしたところだ。

この後はおばさんにも最近撮らないのねと言われたりしたが、
営業を続けていてやめるとなれば撮りまくったがそうではなく、
要所で撮ろうと思った程度でせいぜい年1回程度で…と思っていた。
それが2008年は行ったか行かないか程度で確かチクが終わってしまい、
2009年は行ったとしてもチクが1回でサクライは3回程度。
確実にチクは2010年にはもうやってなかった。
何で回数が減ったかというと、娘がそんなに行きたがらなくなった。
飽きたということでもなく、頻尿が嫌だったのだ。
良くCMでもやってるでしょ?トイレが近いって。ハルンケアだっけ?
なんかイジメとかの関係でか、精神的にトイレが近くなってしまい、
外に出るとすぐに小用をしたがっていた。
家で出る前にして出たのに、10分もしないうちにしたがって。
まさかこんな幼い子が膀胱炎なんて無いだろうし、
家にいるとそういうことは無いので確実にそうではなかった。
とくに私は男なので女子便所には入れず、公園のトイレなど
結構な危険があるのは良く知っているので、単純に嫌だったし、
トイレトイレトイレトイレ言われるのも嫌だった。
それで不快感を私が口にしたりするので娘も外に行きたがらなかったのだ。
精神的なものなので絶対に出ないのに行きたくなる。
父親は出ないから大丈夫だとか、1時間とか我慢できるとかいうし、
ましてサクライはそういうわけで個人宅なのでトイレなんて無いのだ。
あるにはあるけど個人の自宅用。それを貸してくれとなるので
おばさんがいい顔をしない。1回はいいけど毎回いくごとに借りる。
あるときは数回も。それが鬱陶しいのだ。
店を開けて自宅に案内とかしないとならないし、
自宅におじさんがいればいいけど居なければ何か取られたりとかも。
うちの娘がではなく、他人に貸すこと全般が。
店は出入り自由だが、家はそうではないのだから。
(この辺も店であって店でない証の一部)
ということで、下町で物をはっきり言うおばさんなので
「トイレはおばさんちは家のだから貸さないから家でしてきてね」と。
娘はこう来られてはもう行けないのだった。
だって行きたくなくてもしたい気持ちになってしまうのだから。
実際出ないのに我慢しているときは顔面蒼白なのだよ。
そんなことがあったので行きたがらなくなってしまったのだ。
私はもっと行きたかったが、おばさんも自分だけでもお昼に食べに来るとか
もっと来ればいいのよとも言われていたが、やはり子どもが居ないと…。
おばさんはそういえば教えてくれた人の娘が少し太っているのだが、
アンタ、デブになっちゃって~と悪気無く言うので、
その子はおばさんは口が悪いからサクライはヤダ、チクがいいと
言うこともあったりして、そんなタイプだったからね。いい意味で。
ちなみにいじめもなくなった今は、娘の頻尿は治っている。
だから今だったらその問題は無いんだけどね~。

そして昨年の秋もたまたま行ったときに休んでいた。
本日お休みしますと貼られていた。
常連なのでTELは知ってても、既出のようにいきなり行って
すっと入れるとか待つとか、やってたとか休んでたとか、
やっててすっと入れるそれがラッキーだとしてそのささやかな喜びを
味わいたい意味もあっていちいちしないんだよね。
だからそのすれ違いも最後のほうは多々していたのだった。
そしてある日「しばらくお休みします」と。
その暫くはなんとなく空気を感じていた。たやすくないなと。
それは高齢だからという意味で、詳細は知らなかったのだが。
でもだからあえてどうしたのとかいちい聞かずに、
元々やってることだけが奇跡であって、年寄りの道楽レベルでいいので
長くやって欲しいと思っていたことから、
せっつくような真似はしたくなかったからだ。
でもそれは結構長く、夏は商売しないんで大震災も過ぎて夏休みに
突入していたのだ。そして夏が過ぎて秋になり、そろそろかと思った。
そんなさなか、画像は無いのだが、過去に娘の同級生で
サクライからは結構離れているところに住んでいる関根が
小遣いが足りなくなったと従兄弟らと来ていたようなのだが、
(元々足りているが従兄弟がおかわりするので自分もしたいが足りなかった)
そこは数十円私が奢ってやったのだ、スポーツが得意で野球やってるので
マラソン大会で今年も優勝しろよって。(ちなみに今年は明日)
その関根が数日前に行ってきたようなのだ。
そして娘も私とともに常連なのを知っているので
「サクライ店終わりみたいだったぞ」と教えてくれたのだ。

そろそろ見に行ってみようかなと思っていてなんだかんだと
11月も終わろうとしていたが、実はとっくに再開していると思っていた。
9月ごろか遅くとも10月には。
でもそう聞いてきたので、その日娘に見に行かせた。
すると冒頭画像の張り紙があったと。
・・・死んだのか!?そう思ったが、奥からおばさんの声がしたって。
なので生きてはいることが解った。

そこでなんとなくもう店はやめたのに悪いと思いながらも
こんなにキーが叩けるほどの思いをたくさん味わわせてくれたので、
そのお礼だけは絶対に言いたかった。なので掛けてみたのだ。
するとおじさんが出た。
おじさんは気のいい人だが、店とは無縁なので殆ど会話したことがない。
もちろん私の顔は知ってるか知らないか程度だが、
私の名前は確実に知られていない。
(そう思うとサクライのおばさんは私は一度も名乗ってないのに
1年少々行ったらもう覚えられていたので凄く驚いたことがあったな。
まぁそのころここのTELを教えられたんだったけど)
なのでおじさんお店やめちゃったんだって?と聞くと、
そうなんですよ。いろいろありがとうございました~。と、
名前も知らないことだから切られそうになったんだけど、
そこで食らいついて、おばさんは出られないの?もし出られるなら
お礼が言いたいんだけど…。と話して、出られないことは無いけど~…。
おーい、ぜっとしさんがお礼が言いたいらしいぞ!?と声をかけた。
そしておばさんがTELを代わったのだ。

そのときに「ぜっとしだけど、ご無沙汰です~おばさんどうしたの~」と
いうと、なんかリアクションがおかしい。
「・・・ぜっとしさん。ぜっとしさん・・・ハテ?」
(もちろん本名を名乗って会話している)
( ̄□||||!!  俺様!忘れられてる!!!!・・・認知症か!?
そう思ってすごくショックだった。
だって70代でもスクーター乗り回す腰も曲がってないほど元気なんだぜ!?
それがボケちゃったって寂しさ満点じゃん…。
でもそれを踏まえて優しく、
あぁ比較的新しい常連だから忘れられちゃったかなぁ。
Aさんの紹介で何年か前から行かせてもらってたんだけど…。というと、
突然スイッチが入ったように、あぁお子さん女の子1人だったわよね、
今年6年生よねと突然思い出したのだ。
娘の名前はさすがに覚えられてなかったが、私の名前はかなり珍しく
全ての常連の中で私の苗字は私らだけなのに解らないのだ。
鈴木や佐藤ならどこの?と思われるだろうが、
そういうレベルの苗字ではないのでね。
個人的に忘れられていたことではなく、だからこそショックだったのだけど
思い出してもらえたので、その後も会話が出来ることとなった。
解らないままなら話しても意味は無く切るしかなくなったので。

そうすると聞けばどうも精神的に病んでしまったようだ。
この年になって、まさか私がそうなるとは思わなかったといってて、
今は精神内科に通っているということ、
そして笑えるのもつい最近からなのよと、それも驚くことを言っていた。
結局本当はとっくにご隠居してのんびりしたかったのに
常連がやめさせてくれず、ともにやっていたチクがやめてしまい
1軒になった寂しさやプレッシャーが余計にのしかかり、
まじめだけに休んだり悪いと思い、通院も増えれば拍車もかかり、
TELを入口にも書いて教えまくり、それが仇でTELも増えて、
早く再開させなければというものも余計にプレッシャーになり、
今年年明けの七草辺りに数日開けたのだが、どうもおかしくて休み出し、
相当体調がおかしくなって長期休もうと決めた翌日が大震災で、
もはやそれどころではない大惨事も、
高齢者のおばさんに店の再開の意欲を大きく奪うことになったようだ。
私のように楽しめない常連は、まだかまだかとおそらくTEL掛け捲り。
自分が好きなことも解るし、食いたいのも解るが、それはただの私利私欲。
おばさんが長く休むとなれば、黙って再開を待つのみ。
そんな風に出来ずに何度もTEL掛けたおばか常連も居たのでは?
そうなっては一向に回復なんて向かわずに、おそらく担当医に
もうお年なのだし、これを機会にご隠居されてはと促されたのだと。
そしてそう思ってずいぶん改善してきたのだろうと思う。
だけどもうだからといってやらないのだと決めたのだと。

なのでその決断に残念だけど、それはこっちの都合だけだから、
もう食べられないのは寂しいけど、長年頑張ってくれたので
まして私にはもうとっくに諦めていたものを
25年の時を超えて味わわせてもらったので感謝しかないと話し、
またこんな下町育ちの私はその時代の人間だけど、
うちの娘らの世代までも、この土地の子はこれを食って育つという
代名詞の駄菓子屋もんじゃを私の時代のそれと全く同じ味で
食べさせられて経験させられたことにも感謝していると話すと、
そんなに言われると感激しちゃうよと言っていた。
さらにはこんな私らの期待は痛いほど解ってたので、
続けられなくてごめんねとか、迷惑掛けてごめんねというので、
そういうことは全く無いので、おばさんの道楽で商売は成り立ってて
それで良かったんだから、やめるんならそれでいいんだよと。
普通ならとっくにやめてる年なんだから、悪くなんて全く無く、
だからこそむしろ感謝しているのでTELしたんだからと。

店はいちおうそのままの状態らしく、台はくれるなら貰ってもいいけど
頂戴とは言わなかった。でももし譲り受けられるなら、
あの木造校舎の椅子が欲しい。
アレならそれなりに使えるし、もんじゃ以外でも誰もがレトロを感じるし。
だけどももし気まぐれでもんじゃ開けようかと思えば、
たった1日だけでもやればいいと思うので、そこにあったほうがいいと思う。
でも椅子は15脚ぐらいあったのでね。数脚なくなっても…。
だけど気まぐれでまたやればというのは、確実に私のエゴだった。
言っててこれは言っちゃいけないなと思った。
なのでまたやってというのではなく、いつでも気まぐれでどうぞってことで
開けられることがあったらいいねとか言ってしまったが、
それも間違いのない本音なんだよな。
でももうとにかくやめたことでいいんだし、
これからはのんびりとおじさんと仲良く過ごしてねと話した。

実はその数日後に、ここの前を通ったのだが
(でなきゃ冒頭画像は無い)撮影が目的でもなく、
帰宅にわざわざ通ってみたのだ。
そうしたら貼ってあったそれをデジカメ持ってたので撮ったら
脇の玄関のほうで声がしたので目をやると、
おじさんとおばさんが居て、直接顔を見てお礼も言えたのだ。
笑えるようになったのは最近なのよと言ったのは実はそのときだった。
でも見た目は元気そうで一安心したが、
これまでにも元気の象徴のように書いて来たスクーターだが
それが無かったのだ。代わりに新しいチャリはあった。
なんでももう怖くなって乗れなくなってしまったらしい。
それで自転車にしたけど自転車も少し怖いとの事。
おばさんも70過ぎたからねぇ…というともう75よ、75!と
71~72ぐらいと聞いていたが、実はそうだったのかと驚いた。



ということなので、このシリーズの最初の話の怒りは
なんとなく理解してもらえるのではないかと思う。
何度もいうけど、営業してても店であって店じゃないんだよね。
個人宅であって店なんだよね。
この個人のライフスタイルのペースに合わせて付き合っていく
食いもの屋だったんだよ。買い手市場でなく完璧に売り手市場なんだ。
それは駄菓子屋もんじゃの何も知らない一見さんにわかるわけない。
だからあのような記事は仕方ないともいえない。
わかるわけがなく、1回しか来たことないものが、
勇み足どころか無謀な傍若無人なことを記して、
あたかも秘境で秘宝を見つけた自慢のようにするそれは、
完全に間違えであり、今となってはただの個人宅になったので
当該記事は即刻下げられたしと強く願うものであって、
その背景にはおばさんの精神疾患による廃業だということがあるからだと
そこは十二分に理解して行動して欲しいと当該者に強く思うのだよ。
まぁこれだけのまだ書ききれない記事の中身を見れば、
こんなに書けずに、あれ以上何も無かったことを思えば、
自分の書いた記事は、いささか勝手気まますぎたと思ってもらえると思う。

そんないろんな思いが重なり合って、長いときを時空を超えて
私の身近に存在した駄菓子屋もんじゃは完全に姿を消した。
テレビで見たのだが、荒川区の同等のお店が続くことを祈るばかり。
ちなみに私が駄菓子屋もんじゃに触れだした当初、
50代のおばさんばかりだったと既出で書いたが、
30代の若い人が最後にやったけど最初にやめたと記したが、
奇しくもサクライのおばさんがその当時30代だったのだ。
2歳だった子どもを抱えて始めたんだといっていた。
そう思うと、当時としては若手の後発だったにもかかわらず、
私の元々の地域の同世代の人のようにあっさり潰れずに
若い分誰よりも長くやり続けてくれたことには単純に頭が下がる。
その計算の通りに、おばさんは40数年やったといっていた。
大卒22歳から60歳定年まで働いて38年。
40年以上なんて凄くがんばった。しかも30代からスタートだし。
なので一気に老いてしまいそうな気もするけど、
ここからは本当にゆっくりのんびりして欲しいのだ。
だからもはやおばさんと名乗って分かり合えない人は
今後は確実にTELなんかしてはいけないのだ。
それはこういう事実、背景があるから。
何人たりともよろしくお願いしたい。


2011年10月某日
事実上身近な駄菓子屋もんじゃは消滅した。
チク・サクライ両名のおばさんは今日も健在。
亡くなったから終わったんじゃないのが少し嬉しい。
そして元々の神社もんじゃなどを初めとする全てのおばさんたちに
安くてウマくてたくさん思い出が詰まったものを
長い白紙の状態を挟んで長年味わわせてくれてありがとうございました。

【完】

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【重要情報】もんじゃサクラ... | トップ | 最後の持久走大会も終わる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

グルメ」カテゴリの最新記事