感譚

日々感じたこと、ふと思ったことをつらつら。

スマホ恐怖

2020-07-17 22:00:44 | 日記
新型コロナウイルスが流行したこともあり、家にいる時間が増えた。
そうなると必然的に、スマホを見ている時間が長くなる。


現代人は、スマホから逃れることはできなそうだ。
何をするにもスマホが基盤になってくる。スマホのない生活など考えられない。


がしかし、最近スマホによる悪影響を感じるようになった。

まず、疲れ。
スマホが普及して、人間の目もそれに対応するようにはなったのだろうが、やはり限界がありそうだ。
頭痛や耳鳴りがひどい。
瞼がぴくぴくと痙攣し、鼓膜も震えている。あのどうしようもない、自分の意思とは無関係に起こるイヤーな現象だ。

そしてストレス。
スマホを見ていると、否が応でもとんでもない情報量が目に入ってくる。
頼んでもいない情報量のせいで、見たくなかったものを見たり、友達の投稿に神経をすり減らしたり…。
特に今の時代、悪いニュースばかりが広まるし、twitterを開けば、誹謗中傷の嵐だ。
少し目を通すだけで気が滅入る。

さらに、記憶力・集中力の低下。
集中しているようで、していない。どこか集中しきれていない瞬間が増えてきた。
本を読んでも、勉強していても、同じことを繰り返し考えてしまったり、内容が全く頭に入っていなかったり。
集中したいのに、できていない自分がいる。


スマホすべてが悪だ、と言うつもりはさらさらない。
僕も、スマホの恩恵をこれでもかと受けているし、手放すことはできない。

一方で、スマホがない時代に生まれてきたかった、と思う自分もいる。
スマホは、その圧倒的な情報量と引き換えに、他人の存在を身近にしすぎた。
自分と、自分だけと向き合う時間を引き裂いた。


スマホという文明の利器に支配され奴隷になるのか。はたまた、自分を律してスマホを従え、恩恵を受けるのか。
あなたはどっち側の人間か。

校則転換期

2020-07-16 21:36:28 | 日記
今、校則でのツーブロック禁止が議論を呼んでいる。

教育に関心を持つ僕としては、嬉しいことだ。
もっともっと、世間が教育に対して、関心を持てばいい。
どんな些細なことでも。塵も積もれば山となるのだ。


僕の中学校でも、ツーブロックは禁止だった。
大体の中学校は、ツーブロック禁止なのではないだろうか。
ツーブロックのほうがかえってスッキリしていて良さそうなものだが。
事件や事故に巻き込まれるのかは知らないが…。


あなたは、この話題に対してどう思うだろう。

僕は、髪型に限らず、ほとんどの校則はいらないと考えている。
そもそも校則は何のためにあるのかを考える時期が来ているだろう。
様々な理由は考えられるが、少なくとも子どもたちを縛るための物ではないはずだ。
校則は拘束じゃない。


校則は、学校の生徒会で決められるところもあるのだろうが、ほとんど学校側が一方的に決めているのが現実だろう。
ツーブロックはダメ。靴下は白。ジャージの半袖はシャツイン。セーターを着るときはブレザーも着る。etc...。
僕にはこれらを何のために校則にしているのかよく分からない。


集団生活には、統一感が必要だという人もいるが、もっと大切なのは、違いを受け入れる心だ。



子どもたちの多くは、大人に反抗して校則に反対するのではなく、なぜその校則があるのか、どうしてダメなのかが不明瞭だから拘束に疑問を持つ。
大人側はなぜか知らないが、流行しているものを理由も考えず禁止にしたりする。
どっちのほうが大人だろうか。


今必要なのは、不必要な校則ではなく、子どもが自分で自分のことを考える力、周りのことを考える力、自分の決定に責任をもつことだろう。

だから、子どもに校則を決めさせればいいのだ。
子どもが自分で、道を選び、その結果不利益を被るのは、仕方がないことだ。その責任は、その子どもにある。

今大人がやるべきことは、それを子どもに伝えること。そのうえで、子どもの意思を尊重することだ。


ニュースで、コメンテーターが、ツーブロック禁止の校則に対して、
社会に出れば理不尽なことはたくさんある。その理不尽なことに付き合っていく訓練だ。
というようなことを言っていて、少し怖くなった。

理不尽なことは確かにある。それはどうしようもない。
だがそれに耐えるしかないのか。
”理不尽”に声を上げ、変えていく方法を摘み取ってはいないか。


今回のツーブロック禁止の話題は、学校現場を取り巻く違和感のほんの一部でしかない。
だが、それでも大きな一歩だと感じる。
多くの人が関心を持たなければ、今の凝り固まった教育は変わらない。
教育に変革を起こそう。

幸せな記憶

2020-07-15 22:28:51 | 日記
僕は、あまり幸せな記憶がない。

というのも、何か昔のことを思い出したときに、いい思い出よりも、圧倒的に恥ずかしい思い出や嫌な思い出が頭の中に充満してくるのだ。
嫌いだった先生の顔や、好きな子に告白して振られたときの悲しさ。
思い出したくもないことを思い出して、一人悶々とする。


楽しい時間は一瞬で過ぎ去り、逆につらい時間は1分が1時間にも2時間にも感じる。
それと同じことが、人の記憶でも起こるのではないか。


とても嬉しいことがあったり、幸せな出来事でも、僕たちの頭は、結構すぐに忘れてしまう。
幸せなことは、あまり覚えていないものだ。

逆に、辛かったこと、不幸せなことは長い間頭に残る。
忘れたと思っていても、ある時ふとフラッシュバックする。
思い出しても、変わることのない記憶。
やり場のない、苦々しい記憶。


だから、失恋の記憶はずっと長く残るし、付き合いたての最初の幸せは短いうちに薄れていってしまうのかもしれない。

もちろん、人によって個人差はあるだろう。
僕は、結構この性質が強いのかもしれない。


楽しいことはずっと頭に残っていて、辛いことは一瞬で忘れられたら。

世界はよりよくなるのだろうか。

みんな笑顔になれるのだろうか。

自分はあまり強い人間じゃない。
浮き沈みの激しい人間なので、大したことじゃあないことも引きずったり考え込んだりする。


でも、だからこそ、辛い記憶を忘れないからこそ、それを糧に成長している自分もいる。

無理して強い人間になる必要はない。
辛い記憶が甦ることが、なくなることはないだろう。

それでも、楽しい記憶:辛い記憶=8:2くらいで暮らしていこう、と心に言い聞かせて。

私界

2020-07-14 22:40:38 | 日記
僕の目に映る世界は、僕にしか見えない。
逆に、あなたの目に映る世界は、僕には見ることができない。

当たり前のように思えるけれど、よく考えてみると不思議な気がする。


人はたぶん自分の目に映る世界が、正しく間違いない世界だと感じている。
自分が見ているものと同じものを他人も見ていると。

けれど、果たしてそれは本当か。

例えば、ここにリンゴがある。
リンゴの色は?と問えば、十中八九皆さん赤と答えるであろう。
確かに。
僕にも、赤く見える。
しかし、この赤という言葉が指し示す色は、果たしてみな同じなのだろうか。

赤色。情熱の赤。バラ。日の丸。
16進法で表せば#FF0000 。
でも、ひょっとすると今僕の目の前に見えている赤は、ほかの人から見たら僕の見ている青かもしれない。
そんなことありえない、とは言い切れない。
その人からしたら、青が赤なのだ。
確かめる術はない。僕らは、他人にはなれないのだから。


少し頭がこんがらがってきたかもしれない。
青が赤とか、赤が青とか。
青いリンゴを見て赤いリンゴと思っているのなら、何とも言えない感じだ。
青という色から情熱は僕はあまり感じない。

自分の見ている世界は、自分にしか見えていない景色なのかもしれない。
他の人には、ほかの人の見え方がある。
そう思うと、面白く感じると同時に、少し怖くなる。

人間の見ている世界は、その人の価値観や脳にとらわれた監獄のようなものなのかもしれない。決して逃れることができないような。

モア・ユーモア・プリーズ

2020-07-13 23:18:25 | 日記
自慢ではないが、僕にはユーモアとか笑いのセンスが全くと言っていいほどない。
これは、本当に困る。

誰にでも、周囲の人々と話していて、場を盛り上げる笑いのある話題を提供する場面はあるだろう。
もちろん、僕だって21年間生きてきて、数えきれないほどたくさんの話をしてきた。
が、僕が場を盛り上げようとした話で、笑いが起きた記憶がない。記憶喪失なのだろうか。


全くウケないので、もう逆に、自分の笑いのレベルが高すぎて、周りがついてこれないのではないか、と半ばやけくそに自分の才能を肯定したりする。ただ、つまらないだけである。

自分がよく体験することに、周りの人たちは笑っているのだが、何が面白いか分からない、という現象がある。
根本的にツボがずれているのだろうか。
周りの人たちは笑っているのだから、面白いのだろう。
でも、どこか寒い目で見てしまうというか。
自分は面白いこと言えないのにである。身の程をわきまえろ自分。


だから、しれっと面白いことを言えたり、面白い話をして、と振られたときに笑いのある話ができる人は、本当にすごいと思う。弟子入りしたい。
もしこれを読んでいる方の中に、ユーモアのセンスの磨き方を指南してくださる方がおりましたら是非、手ほどき願いたい。


僕は笑いが大好きだ。
笑顔は人を幸せにする。笑顔は人に伝染する。
だから僕はこれからも満面の笑みを浮かべながら、つまらない話をしていこう。