充電と放電の毎日

今迄のブログのように『…だったらいいな…』ではなく
『絶対に…の為に』

もう僕らは扉を叩いてしまった 鋭き真冬の風感じながら 生と死の間を行き交う心… それぞれに…ふさわしい 傷だらけの夜明けに 

2019年12月28日 07時00分00秒 | 音楽も歴史も…きっと生き続ける
誰も気が付いていない場所で落書きのような日記とはいえ
年の終わりのご挨拶というのを毎年やってきました
誰かがどこかできっと待っていて見ていてくれるかも知れない という 願い
だったらいいなという気持ちで…

一応…このブログ日記としては本年最後になるかもしれないので
大切な読者の皆様に区切りのご挨拶をと思いました…
ツイッターでは機会あればギリギリまで呟きますが


エレカシ以外にも毎日沢山の曲を聴いています、きました
大好きな曲はエレファントカシマシの楽曲の数百倍もあります…多分

ふるい曲とか、あたらしい曲とか、ランキングに残る名曲だとか
売れた売れていないとか関係なく、
一時的に流行っていたとか否かも全く関係なく
(寧ろ、流行っているからと言われて聴いても好きにはなれない曲の方が多いのかもしれませんが)
昔から好きな曲は意識せず好きなだけであって嫌いにはなれないので、何も考えず今でも聞いています
特に拘りはないのでジャンルなんか関係なくいろんな曲が好きです…
要するにたまたま好きになってたまたまハマっていっただけです
といっても…
紹介されなければ、目立たなければ一生聴く機会はないし
偶然聴くにも、そこそこは主要メディアで流れている曲であるから、聞いたのは間違いないと思います

それらの曲には、今でも毎日心を潤わせてもらっています
砂漠のなかのオアシスというか、ココロニ花をもたらし続けてもらっているのは当然です

それでも
エレファントカシマシを特別、特別扱いしておりますが訳があります
エレカシの楽曲との出会いがなかったら、今の私はないかも知れない と思えるほど

なんともいえない…シンクロニシティsynchronicity な 部分
古い曲でも、いまを生きている自分 達 にを重ねられる歌詞が飛びぬけて多い…と思えるからかもしれません
最近は『宮本浩次』さんという音楽家の楽曲にも心奪われっぱなしです

だからこうやってわざわざ歌詞を引用して語らしてもらってきました

エレカシの楽曲にはそれだけの魅力と将来性を感じた
このままでは勿体ない、残念だ と感じていた
日本の歴史にも世界の歴史にも沢山の音楽家がいる
今を感じて楽曲を世に送り出して来た歴史上の音楽家
そういう音楽家達と今の芸術家との違いはなんだろうか?…私にはわからない


勿体ない、もっと部分的に、目的を持って、野心を持って拘っていいのではと

最近になって『宮本浩次』としても大活躍していると思います

それにしても凄い楽曲数 と楽曲の密度…
だからこそですが、もの足りない部分がある
特にライブでは聴くというより鑑賞するという表現が似合いそうな音楽家なのだから勿体ない
喉も体も大事にしてほしいものだ
そして、時間も

今を生きている僕ら…
この人生、この時間、皆限りある同じ時間しか共有できないのだから
CDとは違いライブというのは
その瞬間で放つ音源が歴史として残っていくことを考えれば

ここからも素人の個人的感想です
素人にはわからないのですが
歌詞を覚えるのはプロにとって大したことではないのだろうか?
楽譜はみなくても、歌詞は?
ライブの為に練習を相当しないといけない?している?
それは歌詞を覚えるプロとして当然のことなのかも知れないけれど
一人でも多くの人に聴かせる音楽家としては
クラシックのコンサートのように楽譜を見て歌詞を見て歌い上げても
音楽として芸術性にはなんら影響がないと思うのに


練習、覚える、暗記する という 形に縛られず
その分、それ以上に無限の可能性という一発勝負のライブの魅力を表現するというか
そういう芸術的な志向・思考のライブもあっていいのになと思うばかりです
クラシックのコンサートと比較するのもおかしいのですが(笑)

音域・音圧・喜怒哀楽という表現において…
それを、とことん表現する為に専念する
それもまた芸術だと
一人でも多くの人に
聴かせる為に、聴かせることに拘ったライブも
見てみたいものです
そういうところがもったいないと思ったりしています


そういう意味で
私のような素人からしたら変な拘束から解放されれば
エレカシにも『宮本浩次』にも
まだまだ行ける 伸びしろが感じられる ということ だと思えます
行けただ行け!とことん まだまだ物足りない!行ける!!!
と思います



エレファントカシマシの名曲『傷だらけの夜明け』…

を借りて語る…


よるとあさの間に浮かんだ雲を 青く澄んだ遠いあの山波を

そして真冬のこの町の空を

ふさわしい傷だらけの夜明けに


行く先は誰も知らない 多分幾世代にも亘る長い人の歴史の 
そのまた果てに佇む僕ら
古くて新しいこの気持ち
言って見りゃそんなとこだろう

ふさわしい傷だらけの夜明けに

行く先は誰も知らない
鳥が空に飛び立つように
僕らも再び山を越え行こう

もう僕らは扉を叩いてしまった
鋭き真冬の風感じながら
生と死の間を行き交う心

ふさわしい傷だらけの夜明けに



もう僕らは扉を叩いてしまった
鋭き真冬の風感じながら
生と死の間を行き交う心

ふさわしい傷だらけの夜明けに

藻搔きながら手探りで
扉を探していたけれど、ようやく 見つかった
叩こうか叩くまいか?
開ける決心をして、扉の先にあるものを確信して
僕らは迷わず扉を叩いた 鋭き真冬の風という抵抗感じながら…


良い年というのは人によって違います
しかし、目指す場所が一緒の僕らにとっての 良い年 というのは
特別なものです

特別ではあるけれど
『僕ら』だけでなく、『普通の人達』にとっても 国籍や性別・年齢も何ら関係なく
喜ばしい事であり、歓迎できることです
それを喜べない・歓迎できないのはそれなりの特別な人だけの筈です

どうせなら『意識して』『歴史』ではなく『現在進行形で』最高の瞬間を分かち合う為に…

意識して ここに 訪問してくださってこられたみなさま…
良いお年を


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