晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※写真の無断転載禁止!!

【平安あれこれ】わかりますか?日本各地の紫式部像

2024年02月25日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

下の画像の①から⑥はすべて日本各地にある紫式部像です。

それぞれどこにある紫式部像なのかご存知でしょうか。

(正解は画像の下からどうぞ!)

 


①紫式部公園

  福井県越前市東千福町20ー369

 

紫式部は、父・藤原為時が越前守(現在の福井県北東部の長官)になった時に共に越前国へ下向し、越前国府があった武生(現在の福井県越前市)で1年余りを過ごしています。

これを記念して、広大な池や寝殿造の釣殿がある紫式部公園が造られました。

 


②廬山寺

  京都府京都市上京区北之辺町397

 

現在の廬山寺は、紫式部の曾祖父・藤原兼輔が建てた「堤第(つつみてい)」があった場所の一部であり、紫式部はこの地で過ごしたといいます。

廬山寺そのものは船岡山の南にあったものの豊臣秀吉の政策により現在地に移転。

1965年(昭和40年)、角田文衞博士によって廬山寺が紫式部邸宅址であると発表されました。

 


③京都府京都文化博物館

  京都府京都市中京区東片町623−1

 

 


④千本ゑんま堂 引接寺

  京都府京都市上京区千本通り鞍馬口下ル閻魔前町34

 

『源氏物語』(=作り話)を書いて人々の心を惑わせたことが罪深いため、紫式部は地獄に堕ちたという考え方が中世にありました。

そんな紫式部を成仏させるべく千本ゑんま堂には南北朝時代の紫式部供養塔があります。

 


⑤大本山 石山寺

  滋賀県大津市石山寺1-1-1

 

紫式部は石山寺参篭中に琵琶湖に映る十五夜の月を見て『源氏物語』を書き始めたという伝説があります。

平安時代は観音信仰が盛んであり石山寺もそのひとつとして多くの貴族が参詣しました。

『源氏物語』にも石山寺詣をした人物が登場。

 


⑥夢浮橋ひろば

  京都府宇治市宇治蓮華(宇治橋 西詰南側)

 

『源氏物語』五十四帖のうち最後の十帖は宇治十帖と呼ばれます。

宇治を背景にたたずむ紫式部像の姿は、「橋姫」で始まり「夢浮橋」で終わる宇治十帖を象徴するかのようです。

 

 

オススメ本

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】賀茂御祖神社 [下鴨神社](2022年 5月27日)

2023年08月14日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2022年 5月27日のこと

京都市にある 賀茂御祖神社 (かもみおやじんじゃ)こと

通称「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」をお参りしました。

 

ご祭神

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと):西殿

玉依媛命(たまよりひめのみこと)   :東殿

 

下鴨神社には、上賀茂神社のご祭神 賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)の母と祖父が祀られています。

 

賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)といえば 賀茂祭[葵祭]が有名ですが、『源氏物語』第9帖 葵 での「車争い」につきましては【平安あれこれ】賀茂別雷神社(上賀茂神社)で少し触れていますのでご興味がおありの方はどうぞ。

 

【下鴨神社 楼門】

 

【御手洗池】

御手洗社(みたらししゃ)[井上社(いのうえしゃ)とも]は井戸の上に建つ災難厄除けの神様。

ご祭神:瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)。

 

下鴨神社で葵祭の「御禊の儀」が行われる際、斎王代はこの御手洗池に手を浸し清めます。

 

【参拝記念 下鴨神社】

御手洗池のそばには顔出しパネルもあり、十二単と御忌衣をまとう「斎王代」気分になれます✨

 

【水みくじ】

下鴨神社みたらし授与所では「みずみくじ」があります。

このおみくじを御手洗池に浸けると…占い結果が浮かび上がって表示されるのでした。

※写真は水に浸す前

 

【下鴨神社 言社・中門】

言社(ことしゃ)は七つのお社に 干支(えと)[十二支]を守る神様がそれぞれ祀られています。

自分の干支を探す楽しみも。

西殿 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と東殿 玉依媛命(たまよりひめのみこと)への一般の参拝者は中門からお参りします。

 

【相生社(あいおいのやしろ)】

下鴨神社楼門前にある相生社も忘れずお参りしたいところ。縁結びの神様です。

このご神木は「連理の賢木」と呼ばれ、2本の木が途中から1本に結ばれている不思議な木。

 

【縁結びおみくじ】

相生社隣りの授与所では『源氏物語』にちなんだ「縁結びおみくじ」も。

袿を重ねたようなデザインです。

この日、私がひいたのは「常夏」で占い結果は「吉」でした。

相生社や連理の賢木の解説、占い結果と『源氏物語』「常夏」に登場する和歌が印字。

他の「縁結びおみくじ」も『源氏物語』の各帖と和歌がそれぞれ選ばれているのでしょうね✨

素敵ですー!

 

 

源氏物語に登場する賀茂御祖神社[下鴨神社]と糺の森


『源氏物語』第12帖 須磨 において 右近の将監の蔵人(うこんのぞうのくろうど)が詠んだ歌

 

 ひき連れて葵かざししそのかみを

  思へばつらし賀茂の瑞垣

 

 [現代語訳:お供をして葵を頭に挿した御禊の日のことを思うと御利益がなかったのかとつらく思われます、賀茂の神様

 

 

 

同じく『源氏物語』第12帖 須磨 において光源氏が詠んだ歌

 

  憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ

   名をば糺の神にまかせて

 

 [現代語訳:辛い世の中を今離れて行きます、後に残る噂の是非は、糺の神にお委ねして

 

【本文・訳は渋谷栄一氏のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


 

京から須磨へ下る前、光源氏は5~6人ほどの従者を連れて「賀茂の下の御社(みやしろ)こと、賀茂御祖神社[下鴨神社]を遥拝しています。

従者のひとり右近将監の蔵人は、4年前に光源氏が供奉した賀茂祭の斎院御禊の日[『源氏物語』第9帖 葵]を思い出しました。

フタバアオイを冠に挿した晴れがましい斎院御禊の日と今の状況を比較して無念さが表れています。

 

一方、光源氏は「憂き世」(=京)を離れるけれども自身は無実である、と。

歌では「名を正す」と「糺の神」(=下鴨神社の神)の意をかけているそう。

 

さて。

肝心の下鴨神社の糺の森ですが…

写真を撮るのを忘れました

木々の緑が鮮やかで参道を歩くと清々しい気持ちになれます。

 

糺の森では縄文時代の祭祀場跡が発掘されているのだとか。

古くから信仰の地だったのでしょうね

 

 

 

【参考】

鈴木一雄 監修/日向一雅 編『増補改装 源氏物語の鑑賞と基礎知識』須磨 至文堂 2001年

下鴨神社|賀茂御祖神社 公式ホームページ

 

 


 賀茂御祖神社[下鴨神社]

  京都市左京区下鴨泉川町59

  https://www.shimogamo-jinja.or.jp/

 


 

 

 


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【平安あれこれ】賀茂別雷神社[上賀茂神社] (2022年 5月27日)

2023年08月10日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2022年 5月27日のこと。

京都市にある 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)こと

通称「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」をお参りしました。

ご祭神は 賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)。

 

【一の鳥居】

【上賀茂神社 楼門】 本殿は楼門の奥にあります

 

5月の賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)といえば、葵祭が有名ですよね。

葵祭はかつて「賀茂祭」と呼ばれており、賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の例祭です。

古代には単に「祭」といえばこの「賀茂祭」を指していたのだそう。

 

 

『源氏物語』第9帖 葵 において

「祭」を前にして、賀茂斎王が鴨川で禊(みそぎ)をする「御禊(ごけい)」の日の供奉(ぐぶ)には、特に世評が高く容姿がすぐれた人々が選ばれました。

その上、朱雀帝の特別な思いがあって、光源氏までも御禊の行列に加わることとなり、貴賎を問わず見物への一般の関心がより高まりました。

この御禊の行列での光源氏の晴れ姿を見るべく、一条大路にて光源氏の正妻・葵の上と恋人・六条御息所が牛車を停める場所取りをめぐり「車争い」がおきたことが知られます。

 

※賀茂斎王=天皇の代わりに賀茂社に仕える皇族女性。占いで選ばれます。「賀茂斎院」とも。

 

 

 

紫式部ゆかりの片岡

【上賀茂神社 摂社:片山御子神社】

上賀茂神社の摂末社のひとつで楼門の近くに鎮座する、片山御子神社(かたやまみこじんじゃ)[通称:片岡社]には上賀茂神社のご祭神 賀茂別雷大神の母神である賀茂玉依姫命(かもたまよりひめのみこと)が祀られています。

 

 


紫式部の家集『紫式部集』より (13)

 

   賀茂にまうでたるに、ほととぎす鳴かなむといふ

   あけぼのに、かたおかの木ずゑをかしうみえけり

 

 時鳥声まつほどはかたをかの

  森のしづくにたちやぬれまし

 

[現代語訳: 上賀茂神社に詣でたときに、「時鳥が鳴いてほしい」といった曙に、片岡社の森の木末が神々しくみえた。

時鳥の声を待つ間は、片岡の神の社の森の雫に立ち濡れたいものです。

 

【本文・現代語訳は『新訂版 紫式部と和歌の世界 一冊で読む紫式部家集 訳注付』(上原作和・廣田収 編)より引用】

 

※木末(こぬれ):木の枝の先端。こずえ。


 

現在、片岡社の賀茂玉依姫命は 縁結び・恋愛成就・家内安全・子授け・安産 の神様として有名とのこと。

上賀茂神社ではそれにちなむ「縁結び」の絵馬も授与されています。

【片岡社 縁結びの絵馬】

時鳥(ほととぎす)や十二単を着た紫式部と思しき女性の後ろ姿が描かれ、紫式部の和歌「ほととぎす~」も記されています。

絵馬のかたちは「葵」の葉。ハート型にも見えますよね!

 

【手水舎にあった葵】

ハートの形?

 

【境内にある紫式部歌碑】 先にご紹介しました「ほととぎす~」の歌です。

 

【御手洗川】

上賀茂神社で葵祭の「御禊の儀」が行われる際、斎王代はこの階段から御手洗川に両手を指先から入れて身を清めます。

 

 

上賀茂神社境内には、『百人一首』で知られる 従二位家隆の歌碑も。

【歌碑】

上賀茂神社の説明板より↓


  風そよぐならの小川の夕ぐれは

   みそぎぞ夏のしるしなりける

 

    (藤原家隆卿)

 

小倉百人一首の古歌で有名な「ならの小川」で平安の昔、神職がみそぎを修していた情景を詠んだものである。

この辺りを「ならの小川」と称する。


 

 

…というわけで、見どころ満載の上賀茂神社でした。

大好きな神社です。

 

【お休み処】

上賀茂神社参拝後は、お休み処で「神山湧水珈琲」とやきもちを食べてひと休み。

アイスコーヒーのほろ苦さとやきもちの甘さにほっとしましたー。

 

 

 

 

 


 賀茂別雷神社[上賀茂神社]

  京都市北区上賀茂本山339番地

  https://www.kamigamojinja.jp/


 

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】七夕は索餅(さくべい)[麦縄(むぎなわ)]または素麺(そうめん)!

2023年07月07日 | 平安あれこれ

【2022年7月21日 公開/2023年7月7日 更新】

 

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

日本の古代に食べられた「索餅(さくべい)」。

奈良時代に唐から伝わったといいます。

 

【写真は油で揚げられたお菓子「索餅」】

 

「索餅」の「索」は、縄状という意味。

「索餅」の「餅」は、日本でいうお餅ではなく、小麦粉と米粉を混ぜ合わせたものです。

 

また、「索餅」は「麦縄(むぎなわ)」とも呼ばれます。

 

【写真は、三輪山本で販売されている「麦縄菓子」】

 

平安時代の『延喜式』(=法令集)によると、「索餅」の主原料は、小麦粉・米粉・塩。

副原料として、クロダイズ、アズキなど多種類を挙げられているのだとか。

いろいろな「索餅」が存在していそうですよね!

 

古代の「索餅」は「瘧(おこり=熱病)」除けのために七夕[7月7日]に食べられていましたが、

現在は「素麺(そうめん)」が七夕[7月7日]に食べられるようになっています。

 

「索餅」については現在以下のようないくつかの説があるのだそうです。

  1. 干しウドン説
  2. 揚げた菓子説
  3. 干しウドンと揚げた菓子が両方あった説
  4. めんから揚げた菓子へ変化説

 

古代史や食文化史では「干しウドン説」が有力で、乾燥させて保存したものを茹でて醤(ひしお=醤油の元祖)や酢などに付けて食べていたのだとか。

「索餅」は平安京の東市・西市でも売られていたので、庶民も口にしていたとのこと。

 

一方、かつて油は大変高価なものでした。

揚げ菓子だと主に貴族層に食べられていたのかもしれませんね。

 

【写真は過去の風俗博物館の展示より。索餅を前にして座る紫の上】

 

一般的に「素麺(そうめん)」の先祖は「索餅(さくべい)」と言われていますが、必ずしもそうとは断言できないようで…(?)

 

鎌倉時代頃になると宋から「索麺(さくめん)」が日本に入ってきます。

「索餅(さくべい)」が縄状になった餅ならば、「索麺(さくめん)」は縄状になった麺?

「索餅(さくめん)」は塩を入れずに油を使ったものだそう。

 

後には「索餅」「索麺」「素麺」が記録に混在しているのだとか。

もうどれがどれやら!?

 

では現在の「素麺(そうめん)」は?

「索」と「素」という漢字は似ていますし、「さくめん」→「そうめん」という音も似ているかも?

 

麺繋がりから「素麺(そうめん)」の直接の先祖は「索餅(さくべい)」ではなく「索麺(さくめん)」だという説もあるそうです。

 

「索麺(さくめん)」に油を利用して延ばしていったものが「素麺(そうめん)」。

「索餅(さくべい)」を7月7日に食べる文化がやがて「素麺(そうめん)」に置き換わったと思ってよいようです。

 

冷え冷えの素麺っておいしいですよね!

 

夏は揚げ物より冷やしたものが好まれる傾向にありますが、日本で素麺(そうめん)が親しまれるのは豊富な水がある環境だからこそかもしれません。

 

もちろん私は揚げ菓子としての「索餅」も大好きです。

 

 

【参考】

虎屋文庫 編『和菓子 特集ー唐菓子』第12号 黒川光博 2005年

前川佳代 ことのまあかりonline講座『七夕と索餅』レジュメ 2020年 7月 3日開催

八條忠基 淡交社カルチャーオンライン講座『八條先生の有職故実講座 年中行事 五節供「七夕」と「乞巧奠」』レジュメ 2021年 6月27日開催

風俗博物館旧トップページ六条院四季の移ろい 文月

そうめんの山道島原そうめんについて島原そうめんの歴史素麺の起源「索餅(さくへい)」と「索麺(さくめん)」

 

 

↓ 油で揚げる「索餅」のレシピも掲載されています

 

 

 

 


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【平安あれこれ】【太宰府】観世音寺 (2023年 2月25日)

2023年03月25日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2023年2月25日のこと。

福岡県太宰府市、大宰府政庁跡を訪ねた

てくてく歩いて観世音寺へ。

 

【観世音寺 参道から望む】

 

かつて七堂伽藍が並び「府の大寺」と呼ばれた観世音寺。

天智天皇が筑紫<朝倉橘広庭宮>で亡くなった母・斉明天皇の菩提を弔うために西暦670年頃に発願し、約80年後の746年に完成しました。

正式には 清水山普門院観世音寺(せいすいざん ふもんいん かんぜおんじ)といい、大宰府政庁跡の東にあります。

 

西暦761年、観世音寺境内の南西の一画に戒壇院(かいだんいん)が設置。

出家者が正式な僧尼になるため必要な戒律を授けるための道場でした。

(戒壇院は現在は観世音寺から独立した別の寺院ですので次の記事でお話します)

 

 


 『源氏物語』玉鬘巻より

 

 [略」大弐の御館(みたち)の上の、清水の御寺(しみづのみてら)観世音寺に参りたまひし勢ひは、帝の行幸にやは劣れる。[略]

 

 [現代語訳:大弍のお館の奥方様が、清水の観世音寺にお参りなさった時のご威勢は、帝の行幸に劣るものでしたかか。

 

【本文・訳は『新編日本古典文学全集』より引用】


 

玉鬘に仕えている三条という下働きの女性の言葉です。

帝の行幸が素晴らしいのは当然のことであり、大宰大弐[=大宰府の実質上の長官]の妻が大宰府の清水の御寺 観世音寺に参詣していた様子とは比較にもならなかったことでしょう。

三条が筑紫での暮らしが長かったため世間知らずの田舎ものになってしまったことを表している場面です。

 

ただ、帝の行幸と比べたくなるくらいに

筑紫滞在中に三条が見聞きした大宰大弐の妻が観世音寺に参詣していた威勢は印象深かったのでしょうね。

 

 

【観世音寺 講堂】

元は本堂と呼ばれていましたが現在は講堂と呼ばれています。

江戸時代の再建。規模はかつての2.5分の1に縮小しているそうです。

 

【観世音寺 講堂の扁額】

扁額には山号の「清水山(せいすいざん)」の文字が。

 

山号の「清水山」は、観世音寺の北に「弘法水」または「清水井(せいすいのい)」と呼ばれる湧き水の池があることに由来するのだとか。

 

観世音寺の境内には、それを記す江戸時代に建てられた「清水記碑」があります。

 

「清水記碑」については過去の記事で書いていますのでご興味がおありの方はどうぞ。

 清水山普門院観世音寺の「清水記碑」(2009年に書いた記事です)

 

【観世音寺 金堂】

中世期以降、阿弥陀堂と呼ばれていましたが、現在は「金堂」と呼ばれています。

 

観世音寺の宝蔵にはたくさんの仏像が安置されており、それらのうち5メートル前後の高さを持つ 木造聖観音立像・木造馬頭観音立像・木造不空羂索観音立像には圧倒されます。

 

 

【観世音寺の梵鐘 九州国立博物館にて2021年に撮影】

観世音寺の鐘楼にあった梵鐘は現在、九州国立博物館に寄託されています。

 


菅原道真の漢詩『菅家後草』「不出門」の一部より

 

  都府樓纔看瓦色 (都府楼はわずかに瓦の色をみる)

  観音寺唯聴鐘聲 (観音寺にはただの声をのみ聴く)

 

※都府楼=都督府(大宰府政庁)の楼閣のこと

※観音寺=観世音寺を縮めた語


 

菅原道真も大宰府での配所から鐘を撞く音を聞いたといいます。

 

大宰少弐を経験した藤原宣孝(紫式部の夫)や
大宰大弐となった夫をもつ大弐三位(紫式部と藤原宣孝との娘。藤原賢子)
も鐘の音を聞いただろうと思うと感慨深いです。

 

『源氏物語』作中では触れられていませんが、大宰府滞在中の玉鬘もこの鐘の音を聞いたと思われます。

 

 

※この記事は、私が作成しているwebサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 大宰府」の内容を一部用いています。

 

 


 観世音寺

  福岡県太宰府市観世音寺5丁目6−1

  https://kanzeonji.net/


 

 

 


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【平安あれこれ】【太宰府】大宰府政庁跡(2023年 2月25日)

2023年03月10日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2023年 2月25日のこと。

福岡県太宰府市、太宰府天満宮を参拝した後、

大宰府政庁跡大宰府展示館へ。

 

奈良時代から平安時代ころまで

大宰府は、対外的には軍事と外交、内政的には西海道[筑前国・筑後国・豊前国・豊後国・肥前国・肥後国・日向国・大隅国・薩摩国]+壱岐国・対馬国・多禰国を管轄。

律令制下最大の地方官庁であり、大宰府政庁を中心に官衙がおかれ多くの役人がつとめていました。

 

【大宰府政庁 正殿跡】

 

平安時代に書かれた長編小説『源氏物語』

その『源氏物語』に登場する姫君・玉鬘(たまかずら/たまかづら)は、夕顔と頭中将[のちの内大臣]との間に誕生。

しかし母の死を知らないまま、夕顔の乳母に伴われ京から筑紫へ下り美しく育ちます。


それは、玉鬘を育てた乳母の夫が大宰少弐(だざいのしょうに=大宰府の次官)に任じられたためでした。
玉鬘が4歳~10歳ぐらいまでを過ごしたのは大宰少弐の勤務地である筑前国の大宰府であったと思われます。

 

大宰府は平城京や平安京のように条坊制をもつ都市だったと考えられています。

北側の中央に政庁があり、そこから南にのびる朱雀大路を中心に、碁盤の目のように並んだどこかで、玉鬘は乳母や大宰少弐、乳母の息子たちや娘たちに守られながら暮らしていたことでしょう。

 

【大宰府展示館で展示されている大宰府の模型】

 

現在、大宰府政庁跡にはかつて実際に使われていた礎石とレプリカの礎石が並び、市民の憩いの公園として整備されています。

広々とした心地良い公園です。

 

…が、私が訪ねた日は風雨が強く傘がひっくり返るくらいで大変でしたw

 

【上の図はなぎ作成。大宰府政庁のおおまかな建物の配置を表してみました。縮尺や建物間の距離は正確ではありません💦】

 

【大宰府展示館で展示されている大宰府政庁 復元模型】

 

【大宰府政庁跡入り口。階段の上は、大宰府政庁南門跡】

 

【大宰府政庁 正殿跡から北を望む】

 

西暦663年、白村江の戦いで大敗した日本は

664年、大宰府の西側に水城を築き

665年、大宰府の北側にある四王寺山(大城山)に大野城を築き

同じく665年、大宰府の南側にある基山に基肄城を築き

それぞれ大宰府の守りを固めていました。

 

 

【大宰府政庁 正殿跡から南を望む】

 

【大宰府政庁 後殿跡から南を望む】

 

【大宰府展示館で展示されている大宰府政庁で用いられた鬼瓦(複製)】

顔の部位の凹凸の差が大きく、憤怒の形相です。

 

【大宰府政庁跡に咲く紅梅や白梅】

 

晴れた日にまたゆっくり散策したいものです。

大宰府政庁跡の南東部にある大宰府展示館はさほど大きくない施設ですが、大宰府について知ることができます。

 

※この記事は、私が作成しているwebサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 大宰府」の内容を一部用いています。

 

 


 大宰府政庁跡(大宰府展示館)

  福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1

       公益財団法人 古都大宰府保存協会 公式ホームページ

  https://www.kotodazaifu.net/


 

 

 


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【平安あれこれ】筥崎宮 波立ち出でよ筥崎の松

2023年03月02日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2023年 2月25日のこと。

数年ぶりに福岡市東区にある筥崎宮を参拝しました。

筥崎は『源氏物語』においてその名が2度登場する神社であり歌枕でもあります。

 

 


『源氏物語』玉鬘巻より



 [略」近きほどに、八幡の宮と申すは、かしこにても参り祈り申したまひし松浦、筥崎、同じ社なり。かの国を離れたまふとても、多くの願立て申したまひき。今、都に帰りて、かくなむ御験を得てまかり上りたると、早く申したまへ」

 

 [現代語訳:この近い所に、八幡宮(=石清水八幡宮)と申す神は、あちら(=筑紫)においても参詣し、お祈り申していらした松浦、箱崎と、同じ社です。あの国を離れ去るときも、たくさんの願をお掛け申されました。今、都に帰ってきて、このように御加護を得て無事に上洛することができましたと、早くお礼申し上げなさい

 

【本文・訳は渋谷栄一氏のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


 

筑紫の肥前国から都に戻った玉鬘たちでしたが頼る伝手もないので、乳母の息子が都に近いところにある石清水八幡宮(現在の京都府八幡市)をお参りしようとすすめます。

それは石清水八幡宮の祭神が、筑紫滞在中に玉鬘たちが祈った松浦(まつら=佐賀県唐津市の鏡神社)・筥崎(はこざき=福岡市東区の筥崎宮)と同じ神を祀っているから、無事に都へ帰ることができたお礼参りをしようというのです。

Σ(゚Д゚)oO(平安時代にはすでにお礼参りという概念(?)があるのですね~。)

 

一ノ鳥居

楼門

ご神木「筥松」…「標(しるし)の松」とも

神功皇后が応神天皇を出産した時の御胞衣を筥(はこ)に納めて埋め、その標に松が植えられたとのこと。

「筥松」と呼ばれ、「筥」が埋められている岬(崎)ということで「筥崎」という名が起こったのだそうです。

※筥崎宮以外の地名としては「箱崎」

 


  『源氏物語』常夏巻より 弘徽殿女御の女房が近江の君へ詠んだ歌

 

  常陸なる駿河の海の須磨の浦に
   波立ち出でよ筥崎の松

 

 [現代語訳:常陸にある駿河の海の須磨の浦にお出かけくだい、箱崎の松が待っています

 

【本文・訳は渋谷栄一氏のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


 

この筥崎が歌枕だったことがうかがえます。

 

 

筥崎宮の参道には「花庭園」があり、四季折々の花を楽しめます。

私が訪ねた日は冬ぼたんが咲いていました。

 

花庭園では白梅も✨

夏には、筥崎宮境内の西奥にある「あじさい苑」の紫陽花が楽しめるのでこちらもオススメです。

 

 

2023年 1月、都市高速道路を走る高速バス車内から撮影した筥崎宮の参道と箱崎浜。

松並木が美しい…✨

 

 

 


 筥崎宮(筥崎八幡宮)

  福岡市東区箱崎1-22-1

  公式ホームページ

   https://www.hakozakigu.or.jp/


 

 


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【平安あれこれ】紫式部公園(福井県越前市)

2022年10月14日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2021年11月のこと。

福井県越前市にある紫式部公園を訪ねました。

 

 

平安京で生まれた紫式部は、長徳2年(996年)に越前守となった父・藤原為時とともに越前国[現在の福井県北東部]へ下りました。

越前国府は現在の福井県越前市[武生地区]にあり、そこで紫式部たちは過ごしましたが

長徳3年(997年)の年末か長徳4年(998年)の春に父を残して紫式部は帰京しています。

 

越前国で1年あまりを過ごした紫式部は何を想いどんなことを見聞きしたでしょうか。

京との違いに喜んだり落胆したりすることもあったでしょう。

それらの経験は後に執筆する『源氏物語』に少なからず影響があったと思われます。

 

 

紫式部がただ一度、平安京を離れて過ごした越前国。

 

これを記念してつくられた「紫式部公園」は、金色の紫式部像[像:高さ約3メートル/台座:高さ約2メートル]や紫式部歌碑・釣殿・池がある広々とした公園で市民の憩いの場となっています。

(入園無料)

 

 紫式部像の足もとは都の方を向き、視線の先には日野山(ひのさん)が…✨

 

紫式部像 台座 向かって右側(↓ 説明板より)

 武生に向かう国司の一行、新任の国の守である父 藤原為時は

 乗馬姿、紫式部は袿姿で荷物を担ぐ人たちをねぎらいながら、

 輿を降りて一休みする木ノ芽峠あたりの情景

 

紫式部像 台座 向かって左側(↓ 説明板より)

 若宮の五十日の祝いの当夜、藤原道長に賀の歌を所望され、

 紫式部が「いかにいかが数へやるべき 八千歳のあまりひさしき

 君が御代をば」ととっさに歌を詠む「紫式部日記絵巻」の有名な場面

 

紫式部像の視線のずっと先には、日野山(ひのさん)[日野嶽・越前富士]があります。

美しい…!!✨

紫式部公園の池には中島や朱い反橋・平橋も。

 

紫式部公園には寝殿造でいうところの釣殿もあり雰囲気満点。

 

釣殿(つりどの)

 南池に臨んで建てた建物。本来は釣り用であったが、宴・管絃・詠詩詠歌・花見・納涼・観月・雪見だとの行事が四季を通じて行われた。【引用:倉田実 編『平安大事典』朝日新聞出版 2015年】

 

釣殿から見る景色

 

夕方の紫式部公園 釣殿

 

 

「紫式部公園」に隣接して、2021年4月に「紫式部と国府資料館 紫ゆかりの館がオープン。

こちらもオススメいたします

 紫ゆかりの館 公式ホームページ

 

 

 


 

 紫式部公園

  福井県越前市東千福町2

 


 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】亥の月、亥の日、亥の刻に「亥の子餅」

2022年10月04日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

毎年10月に入ると「亥の子餅(いのこもち)」を販売し始める和菓子屋さんが出てきます。

今回は『源氏物語』第9帖 「葵」巻でもその名が登場する「亥の子餅」について。

 

【イラスト:かわいいフリー素材 いらすとや

 

平安時代の宮中における十月の年中行事のひとつ、「猪子祝(いのこいわい)」[亥の子の祝い]で用いられた餅は「亥の子餅」と呼ばれたそうです。

亥の月 亥の日 亥の刻  に 猪の子の形をした餅…「亥の子餅」を食べると万病が避けられるといわれており、たくさん子どもを産む猪にあやかり子孫繁栄が願われたのだとか。

(猪の子の形をした餅であって、猪は入っていません。)

 

  • 亥の月:旧暦10月
  • 亥の日:平安時代の場合、旧暦10月の初めての亥の日
  • 亥の刻:午後9時~11時頃

 

旧暦での四季は

 春:1月・2月・3月

 夏:4月・5月・6月

 秋:7月・8月・9月

 冬:10月・11月・12月

 

旧暦10月は冬でありこれから本格的な寒さに向かう頃…。

無病息災を願うのにふさわしい時期なのかもしれません。

 

 

『源氏物語』第9帖「葵」巻では、光源氏と紫の上が結ばれた第二夜に、「亥の子餅」が登場する場面があります。

 


『源氏物語』「葵」巻より

 
 その夜さり、亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかりを、色々にて参れる ~(略)~

 

 [現代語訳:その晩、(お邸の者が)亥の子餅を御前に差し上げた。こうした(葵の上の)喪中の折なので、大げさにはせずに、こちらの姫君(=紫の上)のものにだけ美しい桧破籠などぐらいを、様々な色の趣向を凝らして持参した ~(略)~]

 

【本文・訳は渋谷栄一氏のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


 

十月初亥の日、「亥の子餅」が光源氏と紫の上のもとに届けられます。

光源氏は葵の上の喪中であるため、葵の上の服喪に関係のない紫の上にだけは趣向を凝らした美しい檜破籠(ひわりご)に入れられた「亥の子餅」が用意されました。

※檜破籠(ひわりご)=破子(わりご)とも。食べ物を入れて運ぶための蓋つきの容器。檜の薄い板を折り曲げて作り、中に仕切りを入れたもの。

 

亥の子餅が用意されたあと、光源氏は惟光を呼んで「この餅をこうたくさんではなく明日の夕暮れにこちらに差し上げよ。今日は日柄が良くない日だった。」と伝えます。

機転が利く惟光は、この言葉で光源氏が紫の上と結ばれたことを察し、翌日の夕暮れに「三日夜の餅」を用意するのでした。

※三日夜の餅=平安時代の結婚の始まりは三日連続男性が女性の元に通うことであり、三日目の夜に「三日夜の餅」と呼ばれる餅が食べられました。

 

 

『源氏物語』第9帖 「葵」巻の内容から、光源氏と紫の上が結ばれたのは旧暦10月の初亥の日の前日であることがわかります。

突然のことでショックを受けた紫の上の心中を思うと、毎年この時期は少し複雑な気持ちになる私なのでした…。

 

 

 

さて。話は戻って…

現在の「亥の子餅」は、10月~11月(旧暦10月)頃、和菓子屋の店頭に並ぶことが多いです。

同じ「亥の子餅」という名でイノシシの子を模した姿でありながら、お店によって異なるので食べ比べをしても楽しいと思います。

 

現在、「亥の子餅」を食べる日について2つの考え方があるようです。

  1. 旧暦10月 最初の亥の日
  2. 旧暦10月を新暦11月に置き換えて 最初の亥の日

 

 

1. 2022年の場合

亥の月 初亥の日 亥の刻

 ↓    ↓    ↓

10月 25日 午後9時~11時頃

 

 あるいは、

 

2.2022年の場合

亥の月 初亥の日 亥の刻
 ↓    ↓    ↓

11月 6日 午後9時〜11時頃

 

もし叶うならば、2022年は

10月25日 午後 9時~11時頃

 あるいは

11月   6日 午後 9時~11時頃に「亥の子餅」を食べたいですね。

 

 

以下の写真は私が今までいただいたことがある「亥の子餅」です。

(現在も取り扱いがあるのか変更があるのかについて確認できていません💦)

 

【京菓子司 俵屋吉冨 (京都市)】

 

【御菓子處 五島(福岡市)】

 

【京菓匠 甘春堂 (京都市】

 

【とらや (京都市)】

 

【有職菓子御調進所 老松 (京都市)】

 

【御生菓子舗 米満軒 (京都市、清凉寺仁王門前)…閉店】

 

【大福餅老舗 (京都市、千本ゑんま堂近く)】

 

【栄屋菓子舗 (埼玉県桶川市)】

 

【御菓子司 かぎ甚 (京都市)】

(実際はもっとふっくら)

 

【丸芳露本舗 北島 (佐賀市)】

 

【小布施堂 (長野県上高井郡小布施町)】

 

 

※この記事は、私が作成しているホームページ『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』「源氏物語追体験」平安時代の菓子「亥の子餅」のページをもとに編集・加筆しました。

 

 

【参考】

江馬務 著 『有職故実』 河原書店 1992年(13刷)

角田文衛 監修/(財)古代学協会・古代学研究所 編『平安時代史事典』OD版 角川学芸出版 2012年

鈴木一夫 監修/宮崎莊平 編『源氏物語の鑑賞と基礎知識』No,9 葵 至文堂 2000年

五島邦治 監修/風俗博物館 編集『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』光村推古書院 2005年

村井康彦 監修『源氏物語の雅 平安京と王朝びと』京都新聞出版センター 2008年

川村裕子 著/早川圭子 絵『はじめての王朝文化辞典』角川ソフィア文庫 2022年

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】平安京の正門・羅城門

2022年09月25日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

平安京の正門だった「羅城門」は、朱雀大路の南端…平安京南辺の九条大路の中央南側に建てられていました。

 

 

現在、JR京都駅 烏丸口にある駅前広場の東側には「羅城門」10分の1 復元模型が に屋外に設置されており自由に見ることができます。

2022年5月の夜、「羅城門」復元模型を訪ねました。

あたりは暗かったのですがライトアップされていて綺麗でした。

 

京都駅前のシンボル 京都タワー と 平安京のシンボル 羅城門

現代と平安時代が交錯するのがおもしろいです。

 

 

ところ変わって

京都市南区唐橋羅城門町にある唐橋羅城門公園(旧 唐橋花園児童公園)には羅城門遺址の碑があり「源氏物語ゆかりの地 説明板 No.27 羅城門跡」が設置されています。

※唐橋羅城門公園は実際に羅城門があった場所とは若干ズレているのだそう。

 

(↓ 写真は2008年に撮影した唐橋羅城門公園。現況と変わっている可能性が大いにあります💦)

 


「源氏物語ゆかりの地 説明板No.27 羅城門跡」より

 

羅城門跡

 平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。弘仁七年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元三年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が『小右記』にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われる。

 付近の発掘調査では、羅城門に関わる遺構は見つかっていないが、東寺の木造 兜跋毘沙門天立像(国宝)や三彩鬼瓦(重要文化財、京都国立博物館寄託)はこの門にあったものと伝えられている。

  

  平成二〇年三月 京都市

 

※なぎ注:一部の漢数字を算用数字に変えて表記しました


 

 

そういえば、

2019年9月12日に毎日新聞の記事で

 平安京「羅城」と「九条大路」を初確認 南端の位置が確定 

と報じられたことが思い出されます。→当時の記事

 

 ❝都の内外を隔てる築地(ついじ)塀「羅城(らじょう)」の跡を初めて確認したと発表した。都の最南端を東西方向に貫く九条大路の跡も初めて見つかった。平安京に羅城があったことが証明され、研究者の間で異なる意見があった南端の位置も考古学的に確定し、埋文研は「平安京の実態を知る上で画期的な成果」としている。

 

とても興味深いです!

 

 

 

 

 


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