快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

東濃のドライブ岩村城址

2014年01月06日 16時52分09秒 | 旅・近隣の風景
昨日に続いてです、
恵那市山岡の寒天干しを後にして、明知線を岩村方面に車を走らせて、先ずは「農村景観日本一」の富田の展望所から田園地帯を望み、
其れから岩村城址へと向かって山道を走って行く、途中でがけ崩れに出会い通行止出丸の駐車場まで徒歩と言う事に成る、
膝の痛みをこらえて登って見たが残念無念、途中で引き返して仕舞って下山した、
城の山麓に築かれている太鼓櫓を見て引き返した、

日本三大山城と言われる、霧ヶ城とも言われた山城は中々攻め落とせなかったが、此の山城にも弱点が有った、信長軍勢が三ヶ月の戦を半年の持久戦に切り替えた為、
食料が底をつき兵士の疲労とかさなり遂に落城した、

元々は岩村城は、織田勢で有ったが遠山景任死後、御坊丸(当年三歳)織田家の三男を養子婿に送りこみ女城主「修理夫人」が城を守ったが、
武田信玄との戦いで苦戦して武田軍勢の策略に嵌まり政略結婚をさせられた、
此の結婚も苦渋の判断のうえで、領民と兵士との流血を避けるためだった、
信長は、武田に寝返った叔母である修理夫人を激怒して長良川の河原で逆さ攣りの刑にさせる、

戦国時代も終焉し江戸時代の平和な時代となると、城主が城の山頂(本丸)に住む必要もなく成り、
慶長六年(1601)城主、松平泉の守家乗は城の山麓に藩主邸を造営して、此処を政治の中心として機能した、
此処に太鼓櫓を築き時を告げ・・・城主と領民の絆と成る。

1画は、農村景観日本一の富田の風景、
中央に見える尖った山が岩村城址の有る処で富田地区辺りは戦場の跡だった様です、

2画は、岩村城址への登り道、

3~4画は、岩村城の山麓に作られている太鼓櫓、(平成2年建造)此処に藩主邸が有った、

5画は、太鼓櫓の言われ、

東濃のドライブ岩村城址の画像

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