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名詞というものは語性のゆれがある

2018-11-27 | にほんごトピック
今回の記事は名詞が本来の名詞以外の機能を発揮するさまざまな例についてのイントロダクションです。
[日本語の品詞体系とその周辺 村木新次郎 著 - ひつじ書房]から抜粋します。

名詞らしい名詞、あるいは典型的な名詞とは、以下の特徴を持つものであると規定できる。
① 語彙的意味をもっている。
② 補語になりうる。格の体系をそなえている。
③ 規定成分を受けることができる。

…以上が名詞らしい名詞であり、これらの特徴のいずれかを欠くものは、名詞性をうしなっているといえる。…とあります。

これらの定義から逸脱し、辞書では名詞扱いされてはいますが、補語としての用法、すなわち、「-が」や「-を」をしたがえて主語や目的語になることはないといった、即ち形容詞的な性質を持つことが本質的なものが見出されています。
その一翼を担う村木新次郎氏の提唱する第三形容詞には、
◆必須の・特製の・厚手の・まやかしの・ジリ貧の・がら空きの・不承不承の
などがあり、主に連体用法(規定用法-受ける側でなく規定する側)で用いられています。確かにこれらの言葉は名詞とは認めづらいものばかりです。
ただしこれらの考察の周辺には第二形容詞と兼務するもの(ナノ形容詞)があったりするなど領域のまたがる様相も帯びており第三形容詞の要件も見極めつつ複眼的に捉えることが肝要だといえるでしょう。
さらには規定用法ばかりでなくシンプルに述語用法のもの(例:互角だった)や連用修飾(例:抜群に優秀でもない限り)などもあり(広義の)形容詞のもつ諸特徴も念頭に置きながら押さえておく必要があります。
ただ局所的に見たとき名詞であったとしても構文の中での機能を重視することで見えてくるものもあり、こうして新しい範疇が提案されるものうなずける話です。


次にその述語名詞としての性格から単に同値・包摂(何は何だ)としての構造にとどまらない特性をもっているものとして
新屋映子氏の「文末名詞」と角田太作氏の「人魚構文」を採り上げていこうと思います。
まずこの種の概念を最初に取り上げた新屋(1989) 「“文末名詞”について」のあらましですが

連体部を必須とし、コピュラを伴って文末に位置し、主語と同値または包含関係にない名詞を「文末名詞」と名付け・・・

とあり、以下のような例文があります。
・川田君はすなおで朗らかな性格です。
・梓川は、この前の春の時とは少し異なった感じだった。
・平岡はあまりにこの返事の冷淡なのに驚いた様子であった。

これらは、連体修飾の部分を必須としており(つまり非自立語)これを取り去ってしまうと次のように成り立たない文になってしまいます。
・川田君は性格です
・梓川は感じだった
・平岡は様子であった

つまり文末名詞が連体部と一体になった被修飾部として機能していることがわかります。
この文末名詞は実質的意味が薄れてはたらく形式名詞的な性格も帯びており内容的な輪郭を連体部に預けた形でそれぞれ文末名詞の語彙的意味に従ってニュアンス付されており主観、説明、アスペクト、伝聞などを表すモーダルな成分に近づいているのである…と考察しています。
私の咀嚼した見解ではこれは同値・包摂の「何は何だ」関係のような等価関係の図式とは異なり、実質的もりこみの集約を文末名詞一点に受けて何か進展性の方向付けを纏っているかのようなはたらきをしている(ちょっと独特の言い方になってしまってスイマセン)、と捉えました。
いずれにせよ川田君=性格 とイコールにならないことが大きな特徴です。
さらに新屋氏は『形式名詞の「ノ」「ハズ」などが文末にきて助動詞的な機能をもつ事はよく知られているが、文末名詞はこれらより実質的な意味を有しながら、文末に位置して相似た働きを持つ。いわば名詞と助動詞の両域にまたがる、あるいはその境界域にある語群と考えることができるのではないだろうか。』
とも言及しており、語彙性を保持する一方で機能的に文法化した助動詞との類似点を見出しているのであります。


さてこちらも関連深い一説として取り上げなくてはならないトピックとして角田太作氏の「人魚構文」があります。
これは[節]+名詞+だ の構造をもつ構文で

・[太郎は明日、名古屋に行く]予定です。
・[太郎は今本を読んでいる]ところだ。
・[外では雨は降っている]模様だ。

という例が挙げられており先述の文末名詞の考えと同様に、太郎=予定ではないのはもとより、[節]部分と名詞が一体化・文法化して複合的はたらきをしているとみることができます。
この種の文はよく考えると奇妙で「前半は動詞述語文などと同じであり、後半が名詞述語文と同じである。まるで、人魚のようだ」と評して「人魚構文」と名付けました。
[節]に現れるものには(a)動詞述語節(b)名詞述語節(c)形容詞述語節(d)形容動詞述語節 があり、

(a)*[太郎は名古屋へ行く]予定だ。
(b)[明夫は天才である]つもりだ。
(c)[明夫は明るい]性格だ。
(d)[明夫は元気な]表情だ。 (※連体形であることに注意)

などそれぞれさまざまな述語が先行します。
また、これを受ける名詞には

  意志、予定、計画、魂胆、段取り、見込み、手筈
  感じ、思い、覚悟
  状況、結果、模様、気配(証拠的?エビデンシャル)
  印象
  習慣
  性格、性質
  役目、掟、運命
  体の特徴、表情、口ぶり、体格
  構造、仕組み、システム、スタイル
  時間、前後関係、途中
  語り手の述べ方、別の角度:話、具合、顛末、塩梅
  文体的効果:次第
  形式名詞:つもり、はず、わけ、もの、こと、ところ(アスペクト)、ほう
  助動詞・副助詞をあえて抽出する:よう、そう、(ふう)、(ばかり)、(らしい)

などさまざまあり、新屋氏も先んじて相通じるような語彙分類を立てています。(詳細は割愛します)
特に形式名詞の場合は、名詞の元々の意味と人魚構文が持つ意味・働きの違いが著しいといったことがみられ、文法化に伴ってモーダルなはたらきの機能側面を有したといえます。
(余談ですが人魚構文は世界的に見ても面白い対象であり、日本語以外ではアイヌ語、朝鮮語、中国語、モンゴル語、サハ語(シベリア)、ビルマ蕎、ネワール語(ネパール)、タガログ語(フィリピン)、ヒンディ一語(インド)など約20の言語で人魚構文が確認されたといいいます。東アジア以外ではエチオピアのシダーマ語にもみられるということです。)


長々となってしまいましたがここまでの話をまとめますと

・主に規定成分として形容詞的にはたらく「第三形容詞」
・文末にあって全体として述定に深くかかわっている(ときに助動詞的な性格をもつ)「文末名詞」
・文の前半と後半での異種同居のねじれ(さまざまな用言と名詞文の結合)をもつ「人魚構文」

のように典型的な名詞としてではない越境性をもっているものがあることがわかりました。
統語的にも語彙的にもある種の特異性をもっているばかりでなく、文末要素あるいは前要素であるなど配置的にも概して自由であり、
名詞というものが既存の確立された形容詞性や述語性にいつでも成り代われる機能をもつのだのだという変幻自在の片鱗を見せつけられたのかのようです。
名詞とはたえず語性の揺れ動く存在で、自立性があるというよりもむしろ構文全体から見て自分のポジションを決めるべく抜け目なく立ちまわる日和見主義者に見えてきてしまいます。

はじめは品詞の帰趨に着目し、動詞の複合物あるいは文法化された助動詞とする見方を経て、個々の用例の持つ語彙背景の広がりにまで関心の範囲が広がってきました。
機会があれば言語を俯瞰する視点でスケールを大きく…概念を意識定着化させるプロセスとしてのメタファー・プロトタイプ・メトニミーについて…認知言語学的な視点なんかもどっしりとやりたいものですね。

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