「葬儀不要でいいか」
最近「家族葬」という言葉をよく耳にする。本来、葬儀は家族でするものである。縮小型の葬儀という意味でそのように呼ぶのだろうが、それはまったく問題はない。「直葬」という言葉もよく耳にする。これは「葬儀はしない」という意味である。亡くなった方が無宗教でそれが遺言ならそれでもいいが遺族側だけの意向で「直葬」ならば問題があると言えよう。
ここにきて(令和2~3年)コロナ禍による葬儀中止の事例が多くあるようにきく。やむを得ないことなのでコロナ禍のおさまった折には是非、後日葬を営んでほしい。
ここに「葬儀は何故必要か」について考えてみる。結論から先に述べると「葬儀は仏教徒にとって遺族や近親者のための授戒式である。だから葬儀は必要である」。授戒は生前に仏戒を守ると誓う仏教徒として入信の儀式である。
臨済宗各本山では開山禅師○○年遠忌の折に授戒会を催す。多くの善男善女が管長猊下より生前戒名をいただき仏戒を授けられる。おのずから一週間の授戒会ではその参加者に限界がある。それでは少ないのではないだろうか。
ところが葬儀の折に亡くなった方に代わって遺族が仏戒を受けるとすれは檀信徒は皆、授戒の入信者である。導師や僧侶は通夜などの折にそのように是非説く必要がある。葬儀に参列していただいた方々にとって仏教徒を意識できるまたとない機会である。
このような「葬儀の遺族授戒説」は日本の仏教で昔からいわれている説である。ただしそれを縁として先に述べた正式な授戒を受けるのが本来であることは申すまでもない。
「葬送の起源」
「現在知られている最古の埋葬遺跡は旧石器時代中期ムスティエ期のものとされる。1907年フランスで発見されたネアンデルタール人は上方に曲げた腕の側に野牛の頭蓋骨、火打石をおき身体に動物の骨粉をまくなど明らかに死者に呪術・宗教的儀礼の営まれた痕跡がある。」(出典1)
ネアンデルタール人は現在の人類ホモサピエンス直接の祖先ではないが遺伝子上で数パーセント混血していることが知られている。またその壁画などから既に高度な情緒をもっていたことも知られている。
先ずは野牛の頭蓋骨は何を意味するのであろうか。これは推測だが当時は猛獣が脅威であったので遺体を守る為だったのだろう。骨粉を撒いたのはやはり猛獣を避けるための「臭い消し」だったといえるのではないか。火打石は何を意味するのだろうか。生き返ったときの生活のためなのか。次の世の生活のためなのか、火を焚いて猛獣を避けるためなのか、文字のない時代なのでそこのところは想像するよりほかはない。
中国の昔の葬儀では、棺桶の上に生き返ったとき野獣から身を守るために刀を置いた。今日、日本の葬儀でも棺桶の上に模造の刀を置くのはこれに由来する。同じく中国では昔、棺桶の上をシキミの葉で覆った。これは野獣から遺体を守るための臭い消しである。
いつの時代も死は最大の恐怖である。その恐怖からの回避がそのような埋葬の儀礼になったと思われる。
ネアンデルタール人の葬儀で特筆すべきは遺体の傍らに花があったことである。遺体に花粉がついていることからこのことが分かるとされている。これは明らかに「葬儀」である。このとき遺族は亡き人に花を手向け涙を流したに違いない。当時の平均寿命は分からないが28歳前後だろう。男性は狩りで命を落とすことがあっただろうし女性は出産の後で亡くなることが多かったと考えられる。トルコで発掘されたネアンデルタール人の遺跡では遺体の顔を西に向けて埋葬していたそうだ。これは驚くべきことである。
そのことを思ってみても現代人が「葬儀はいらない」というのは間違っているのではないか。人の死に際しては恐れと謙虚さがなくてはならない。
「引導の起源」
黄檗希運禅師(?~850)は行脚の途中、川に流される母親に遭遇しタイマツを投げ入れ、一句を詠んだと伝えられる。これが引導の起源である。
廣河源頭乾徹底
是此五逆無所蔵
一子出家九族生天
若是妄語諸仏妄語 出典2
廣河の源頭(みなもと)徹底に乾く
是れ、此の五逆の重い罪は蔵するところなし
一子出家すれば九族天に生ず
若し是れ妄語諸なら仏は妄語なり
この句を意訳にしてみると次のようになる。
お母さん私は出家者として立派につとめますので安心してください。私は仏弟子になったのですからみなさんは救われるのです。
これに到る逸話は次の通りである。
(黄檗)希運は母親一人を残して出家した。母親は悲しみのあまり、ついに失明した。母親は息子の足に瘤があることを思い出し街道を通る雲水の足を洗うという奉仕をすることにした。ある日のこと、街道の傍らで希運の前に母親が他の雲水の足を洗っているのを見かける。希運の番になったとき、母親は足の瘤で息子であることに気づくが、希運は知らぬ顔をしてその場を後にした。母親はその後を追っていく途中で川におちた。それで前述の通り希運は川に流される母親に遭遇することになった。
母親が川に流されるのに遭遇するとはたいへんな災難である。平和な時には考えにくいことだが戦争や津波などでそのような不幸に遭遇した方はそのようなことがあっただろう。葬儀にはそのような苦に向き合い近親者で共有し、その後の生活を正しくするという意味があるといえる。
◯「安心のための葬儀」
報道されるイタリアや米国でのコロナウイルスで亡くなった方々の葬儀を見ると教会の聖堂に多くの遺体があり聖職者が香炉で清めておられる。そこには遺族や近親者の参列はない。病気が伝染するので仕方ないことだが実に寂しいことである。参詣は家族だけであっても当たり前に葬儀ができることは幸せである。葬儀は遺族や近親者のための安心につながらなくてはならない。
安心は「あんじん」と読み、仏道に進んで心が安らかになることである。最初に述べたように仏教の葬儀は遺族や近親者のための授戒であり、大切な入信の儀式である。
圓通寺住職 吉富宜健
◯出典1・『宗教学辞典』東京大学出版会p508「葬送の起源:原始人の信仰」
◯出典2・『織田仏教大辞典』p95
●坐禅会 毎週土曜日午前6:25~8:00
久留米市宮の陣町大杜1577-1圓通寺
初心者歓迎 参加費無料 初のみ1,000円
詳細は電話でお問い合わせください。0942-34-0350
初回参加者は6:15までに来てください。
●学校やクラブなど団体研修 坐禅申し込み随時うけたまわります。
出張も致します。
費用はご希望に応じます。宿泊はありません。
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