●『教行信証』翻訳
鈴木大拙は浄土真宗の教祖、親鸞の著である『教行信証』を途中まで翻訳したところで逝去された。その訳語の中に阿弥陀信仰と禅との関係がうかがえる。
禅では「行」を「修行」ととらえる。禅の立場で「行」を英訳すればPhysical practicing(身体的な実践)となる。ところが浄土真宗には修行はない。だからこの翻訳ではいけない。生活そのものが「行」でなければならないからである。そこで大拙博士はthe true Livingと翻訳した。つまり南無阿弥陀仏は「真実の生活」ということだ。
そもそも禅の眼目は何か。それは「外に向かっては利他行であり、内に向かっては自ら随所に主となす」である。言い換えれば「人にやさしく、自分の置かれたその場において自主的な働きができる」である。『教行信証』の「行」と何ら変わりはない。
禅では「目の前のこと」を「真実」という。大拙博士は「行」をLivingとLを大文字で書いている。一般の生活ではなく南無阿弥陀仏の生活だから頭を大文字で書くのである。the true Living(真実の生活)とは「目の前の生活」である。だから信仰と坐禅は同じ世界である。
教:Expounding of the true Teaching
行:Expounding of the true Living
信:Expounding of the true Faith
証:Expounding of the true Realization
(Expounding=詳細に説く・鈴木大拙博士訳)
●南無
南無の語源=Namasは「屈する」の意味である。仏教ではまごころを込めて帰依する意味である。インドで「ナマステ」は挨拶のことばである。
親鸞聖人は「たとえ悪人でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に成仏できる」と説いた。それはすごいことである。仏教には「極悪人は成仏できない」としている宗派もある。親鸞の言ったことは、世の中の難しい問題は南無阿弥陀仏でみな解決できると言っているのと同じだ。イエスが愛を説いたのと似ている。一般に仏教とキリスト教はその教義が大きく違っていて相いれないように思われているが、親鸞の南無阿弥陀仏とイエスの愛は似ているところがある。
浄土教では「南無阿弥陀仏を六字の名号とよび、これを唱えることによって浄土に生まれることができる」と説く。浄土真宗では「阿弥陀仏に救われた喜びのあまり感謝の念をもって唱える報謝の念仏であると説く」 『中村元仏教語大辞典』
すでに救われているという感謝の念仏、それは仏陀の悟り、あるいは臨済禅師の「無事是貴人」に匹敵するといえるだろう。
●南無仏
2017年6月、友人と二人でスリランカを訪れた。コロンボバンダラナイケ国際空港でタラップを降り、手荷物検査所へ行く途中ナースセンターの前に大きな仏陀をお祀りしてある。坐像で2メートルもある黄色の美しい仏像である。仏像を祀っている空港はコロンボ空港だけだろう。
この国ではビルの屋上、道路交差点の角、小高い山の上などいたる所に大仏を祀っている。街を見下ろす山の上に大仏を祀る理由を現地の方にたずねると「ブッダが見えるところは犯罪が少ない」のだそうだ。もちろんイスラム教やキリスト教、ヒンズー教の教会もたくさんある。仏教徒は地域により多少はあるが、おおよそ国民の70パーセントである。
スリランカの仏教徒は菩提樹に熱心に参詣する。菩提樹には仏陀の魂が宿っていると信じられている。その昔、インドのブッダガヤから分木がスリランカにもたらされ、樹齢2300年をこえる菩提樹がある。またその分木を移植した樹齢1500年の菩提樹もスリランカ各地にあり、それぞれ上座部仏教の聖地とされる。参詣者たちは仏教伝来の記念日:ポソンポヤデーなどには夜遅くまで仏教賛歌を唱える老若男女の信者が絶えない。スリランカでは南無仏、あるいは南無釈迦牟尼仏を次のように唱える。
ナモータッサーバガバトーアラハトーサマンサブッダッサー
ナモーは南無。タッサーは向かってという意味の前置詞。バガバトーはブッダの異名で「すぐれた者、諸々の徳を有する者の意味で、アラハトーは阿羅漢と漢訳され悟った人のこと。サマンサはずっと偉い人の意味。ブッダッサーは仏陀の意味である。上座部仏教では儀式で信者はこれを三回となえる。実に柔らかい響きがある。南無釈迦牟尼仏の原点はこれだ。
この時、建築デザイナー、アジス・アベイサンドラ氏の協力を得て灯明会を催した。参詣者20名で「ナモータッサー~」と唱えていただいた。参詣者のある年輩の男性は「サマンサブッダッサーとは、ブッダはすごく偉い人という意味です」と言っておられた。スリランカの人たちと日本の僧侶が同じ祈りの時間を持てたことは感謝というより他はない。