自分がこれだけ惨めな扱いを受けるのか?……とその事実を飲み込めず、その自分の惨めさが受け入れ難く、そんな扱いを受ける自分を許せない。認め受け入れられない事から死への誘惑は始まっている。
これも自分なのだ!……と許さなきゃならない。
時として人がそんな境遇に落とされるなら……自分にも起こりうる事なんだ!……と事実を受け入れそれに付き合い切ってやると覚悟を以て新しい時間と向き合う事が大事だと思う。
不思議だけど……最初こそ、無礼な扱いの一つ一つに過剰反応し、落ち込んでいたのに『これが自分なんだ!』と覚悟を決めるや……仕掛けて来る連中の醜さが見えてくるのである。
僕の様な惨めの大家となると……そんな人達に同情の念さえ湧いてくるから不思議である。
『そんなもんである』……見る場所、光の当て方を変えて見れば惨めなのは相手の方だったりするのである。
新興宗教ではないと断った上で、言いたいのは……自分にやって来るテーマには必然性が必ずあるという事だ。
請け負いきらなきゃ見えない、大きなテーマが含まれている。
死にさえしなきゃ必ずそのテーマが見える。そしてそのテーマは必ず終わるのだということ。これは必ず終わる!……僕はそんなやるせないテーマが始まると、何時もそう唱える。
テーマの終わりを見ずして自分を終えてはならない。
先ず、『生き抜くこと』である。自分の命より長続きするテーマなど在るわけがないのだからと……。
自分を許して上げる事はとても重要な事だ。
焦り、苛立ちその先を急いでも、時は自分の思いでは過ぎていかない。
味わうのである。そのテーマの意味が分かるまで付き合う覚悟を決めるのである。
その境遇を諦め、自分を許す事だ。
そしてこのテーマが終わるまで付き合うという覚悟を決める。その覚悟が決まれば、嘘の様に楽になる。
理不尽は何時までも理不尽のままではいられなくなる。自分の『自然体が決まる』と必ず理不尽は音を上げるのである。
自然体は座りが良く幾らでも耐える事が出来る。耐えるというより、付き合っている事が味わいとなる。
理不尽は『とても不自然であり』長い時間には耐えられないのである。
それを見ずして人生を閉じるのはおバカさん過ぎる。ま、論より証拠……何をしなさいなんて言わない。そこに居さえすれば良いのだから……。
やってみなはれ!……。
理不尽に身を置く自分を許せると……理不尽な人も許せる様になる。
そして何時しか相手に同情の念さえ抱くようになる。
憎むのは辛く許すのは心地よい……そんなことも分かる人間になる……誰でも。
悪足掻きしなくても……必ず人生は終わる。
これに失敗した人は宇宙史上独りもいないのだから……。
今少し……明日はどんな惨めがやって来るのかな?……と味わってみて欲しいのである。
それで死ぬ事なんてないのだから……。
結論は急がないこと。
命のことは自分が決めてはならない。自分が作ったものじゃなく与えられたものだからいである。
天に自然にお返しする時が来てからで良いのである。
空はそこにあり誰にも降り注いでいる。
如何に惨めとてそれまで失う訳じゃない。
誰かに助けて下さいと言わなきゃならない時が誰にも1度や二度はあるでしょう?
勇気を振り絞って『助けて!』と言ってみて欲しい。