我が国でこんな人を『大人・世渡り上手』なぁ〜んて翻訳しだしたのは何時の頃からか?
思い起こせば高度経済成長が終わった頃かなぁ?
彼等は成長モデルさえどんな論理なのか?実のところそれも考えない、無思考を武器として立ち回る、刹那、刹那を上手く演る事に血道を上げるだけの人間達だった。
考えて見れば?
全ての人間は自分の人生に『100%の自己責任』って奴を背負っているのである。
無思考人間は『時間とエリアを限定』して、経済的困窮を囲う人間を見て……責任回避の魔法の呪文として『自己責任』と唱える訳だけど。
そんな態度でその一瞬を過ごす事が、それもまた『自分の自己責任』となって自らの人生に積み重なりやがては反映される事にまるで無頓着なのである。
資本・市場主義ってカネを効率的に運営する為の究極のシステムである。
何故か?……それは人間の欲望そのものを下敷きに編み出されているからである。
『生きる意味?』そんなのは幾ら考えたって思考分野は際限なく拡がっていく。それは苦行に似てキリが無い世界である。
しかし、カネ(物質)の欲望はどんな人間でさえ意識的に保有し理解している。
カネは日常生活に於いては『万能のツール』なのだから……。
人生の早い内に、『自分が生きる意味』というテーマに辿り着ける人は稀であり幸せである。
際限なく続く命?と錯覚する位あり余る時間。そんな条件は若い心身を使って享楽に耽る最高の条件となる。
無思考を当たり前にすると時間は絶えず『今にのみ使い込まれる様になる』……。
過去も未来もない。そんな人の発想の源は絶えず『刹那の今』しかなくなるのである。
人生のテーマは無限大に目の前に提示され続けるけれど……それらを自己責任の範疇で捉えるには人間力がなきゃ無理がある。
目の前の仕事らしきもの?をチャッチャと片付けて余裕をかましたい?……ついでにその大変さの一つでも周囲にアピールしたらOKとなる。
歳を経るに従って大抵『人は自己嫌悪を失って行く』ものである。自己嫌悪は取り組むべきテーマの置き忘れの時に発動する。
しかし人間は何時しか、自分を騙し説得し納得に導く事ばかりが上達する。
折角の自己嫌悪も、ただ鬱陶しい面倒ののタネとなっていく。
大体40、50を過ぎると聞かれもしないのに『忙しい』を連発する人が激増する。
一体誰に対してエクスキューズしてるのか?
『何もかもがアンタの自己責任なんだよ!』なぁ〜んて要らぬお節介を焼く人なんて居ないのにね?
仕事の現役ならばまだしも早期退職なんてして手持ち無沙汰になった人に対して社会は用事を持たない。
そうやって無思考を武器に立ち回り『人に対してばかりの大変演技』で生きて来た人間は社会から矢の一本さえ飛んでこない寂しさを囲うのである。
生来の生きる横着が祟っているからその寂しさの原因が自分にある?なぁ〜んて死んでも気付けない。
より被害者演技に拍車がかかり、キレる老人が出来上がる運びである。
どうして?と考え、面倒を超えて行う。
すると無責任な批判も来る。
ソレもコレも含めて自己責任と捉え矢面に立つこと。
ソレをこの国では昔……『生き甲斐・やり甲斐』つて呼んでいたのである。