そこに気付いちゃ駄目なのよね?とか思いつつ、あたかも凡庸を隠れ蓑に使う様な無意識の罪深さを目の当たりにする時……とても哀しい気持ちになる。
彼等も哀しいのだ!と思いつつ、またその凡庸によってチームを頓挫させられた人の残念もまた胸に迫る思いがある……。
何年か前……夏の甲子園、高校野球の決勝戦……勝負所で広陵のライトはイージーフライを落とした。
次のシーンでは三塁手のゴロの処理の稚拙さ……二番手の投手と捕手の中村の配球にミスはない。
マウンドに歩み寄った中村と二番手の投手は一瞬の目線の会話をした。
こりゃ、もう駄目だけどお前のせいじゃない!……ああ分かってる!……出来るだけの事をやろう……そんな会話だと分かった。
チームだから凡庸なプレイヤーがいけないと言うのではない。
あんなミスが、重要な場面で出るのは、技術じゃなくモチベーションが稚拙なのだと言いたかった。
凡庸なプレイヤーにもモチベーションの義務はある。
天才型のプレイヤーと技術は違えどもメンタルの緊張は同じレベルで張っておくのがマナーであり礼儀なのである。
技術が稚拙なら尚更、メンタルの緊張に努めるのは義務そのものだ……。
僕は個人的ブログだからこんな事を書くけれど、日常では絶対に喋らない。
ムッシュボヴァリー達は必ず言うのである。
『彼等もミスろうと思ってやった訳じゃないのだから!』……って言うのである。
それ、当たり前ですけどぉ……と言えばアイツは鬼だ!畜生だ!なんてヒステリックに叫ぶに違いないのである。
それってチームワークじゃないのよね。ナアナアって言うのよね……。
有り体に言えば……そんな理解って理解じゃなく無知で無責任なだけなのである。
安手のヒューマニズム、美しいと勘違いしてるナアナアのチームワークもどき。ま、だからボリュームゾーンのやる事には完成は無いんだけど……。
どうしてもこの国ではチームワークはナアナアベタつきと混同されるきらいがある。頑張るなんて当たり前!根性なんて当たり前。
その上で……さて?どう戦おうか?のテーマに取り組めるのです。
✳最後にムッシュボヴァリーについての注釈
✳最後にムッシュボヴァリーについての注釈
ムッシュボヴァリーとはフローベールの小説『ボヴァリー婦人』のヒロインの旦那。凡庸な医師で、自分にも他人にも何一つ心が動く様なプレゼンなど出来ない。
彼の長所は『悪いことを働かない』事以外ない。毒でもなく薬でもない男。
それ故、彼には具体的罪悪は無いけれど、夫人にとってはそんな彼の存在感そのものが耐え難いのだ……と。
浮気を繰り返し、壮絶な最後を向かえるに至った夫人には、何の罪もない代わりに何の面白みもないムッシュボヴァリーと向き合う時間こそが拷問だった……。
法学的な罪は無いけれど……哲学的にはその男は存在そのものが罪だったという解釈がなされている……。
彼の長所は『悪いことを働かない』事以外ない。毒でもなく薬でもない男。
それ故、彼には具体的罪悪は無いけれど、夫人にとってはそんな彼の存在感そのものが耐え難いのだ……と。
浮気を繰り返し、壮絶な最後を向かえるに至った夫人には、何の罪もない代わりに何の面白みもないムッシュボヴァリーと向き合う時間こそが拷問だった……。
法学的な罪は無いけれど……哲学的にはその男は存在そのものが罪だったという解釈がなされている……。