サンチョパンサの憂鬱

分を弁(わきま)えるということ

分をわきまえるというのは、ひたすら卑小な存在として相手に対し一方的に譲歩したりおもねたり、へつらう事ではない。

逆説的に言えば……自分の分をわきまえてない人は総じて強い者(声が大きい人)に対しては徹底的に卑屈である。また相手が自分より弱いと踏めば意味のない不遜さで以てやたら高圧的な態度にも打ってでる。

自分の『分というもの』は自分と外界との関係性を極めて冷静に客観的に分析した上で初めて理解されるモノだと思う。

分をわきまえるという『冷静な態度の自己評価』は相手によって態度が変わる事は無い。
理不尽な振る舞いをする相手には毅然と対応するのも分をわきまえているが故の態度なのである。

自分に道徳的落ち度はない!との確信を持っている事もまた分をわきまえている証左なのである。同時にまた自分の至らなさも認知しているから弱者に対しても傲(おご)ることなく淡々と接する事が出来る。

必要以上に相手を貶めるなんて暴挙は必ず自分の分をわきまえていない人が……演る。
『自分の分をわきまえる』という『冷徹な自己評価』は変わらぬ信念と裏表を成しており、揺るがない。いわばその人の心の奥座敷といったモノなのである。

分をわきまえていない人はこの心の奥座敷を持っていないのである。
心から大切にする自分の心というものを知らないから直ぐ舞い上がり、人の奥座敷にいきなり牛を連れ込む様な愚行を繰り返すのである。

何時も自分の感情が自分を取り仕切っているから、自分が行う事の善悪も卑劣も卑怯も全てスルーとなってしまうのである。
感情は何の根拠もなく何時だって自分を正当化するものだからである……。

自分の心に誇りを持って生きてる人が……そんな人から傍若無人な振る舞いを受けても沈黙を守るのは……その野蛮人が怖いからでは断じてない。

その野蛮人の行いの最初から最後まで全てが既に自ら『語るに落ちている』からなのである。
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