サンチョパンサの憂鬱

『諦めるの術』の提案

現実を受け入れなければ次は始まらないと思う。

誤解を恐れずに言えば……原爆についての反核活動だけどその志の高さに敬意を抱くことは勿論なんだけど……その効果については無理でしょう?と思う……。

それは語り部側の能力の問題じゃなく、聞き手側の能力の問題である。詰まり聞き手の想像力の限界である。

リアルの体験者と聞き手の想像力というリアリティーとの間の越える事が出来ない乖離があるからだ……。
詰まり、如何にリアリティーを以て想像しても実際のリアルには絶対届かないのである。

この活動を揶揄する積もりは毛頭ない。

しかし『核問題』の取り組みに有益な効果を求めるならば……既存の方法を『諦める』事から始まるモノがあると思うのである。

世の中には『無理じゃないか?』と言えない『大正義の論理』ってのがある。
語り部活動もその一つだ。市長が抗議の電報を打つのもそれだ……。

NOを言えない事と、yesと肯定する事とは違うと言いたかった。
こういった場合、NOと言えない事には人は……沈黙すれど希望を持つことはない。
只、否定は出来ないというだけだ。
yesと肯定出来る事には未来とその実現の可能性がある。

どんな悲惨な事でさえ時間経過による風化は人の世の常と受け入れる所に、新たな希望が生まれるんじゃないか?……と思う。

アメリカが北朝鮮に核を放棄しろと言う。これに反対する人は……おそらく居ない。
しかし自分は保有しておいて『お前は駄目だ!』というアメリカの理不尽に思考が及ぶ人は少ない。

大半の人は……アメリカは絶対核放棄しない!という『現実』を受け入れているからに他ならない。良くも悪くも『現実』とはそういうモノである。

人は……忘れる。忘れちゃならないって事もやがて忘れる。ならば……忘れる事を前提に次善の策を考え実行するしかないんじゃね?
アメリカを鬼畜と呼んで戦った事を日常の中で僕達は……忘れている。

しかし、今アメリカと戦争する?訳にはいかない理由を戦後長くこの国は作ってきたから対戦国として今一番アメリカは遠くになった。戦争し核まで落とされた事を忘れたけれど、戦争しない理由を着々と戦後築いて来たから日米間には平和がある……。

全てナアナアで現実に流されるってんじゃなく……出来ない事を『積極的に諦めること』によって、目的は達成出来る事もあると思うのである。

『諦めない勇気』は大切だけど……時として『諦める勇気』こそが最善の策ということがこの世の中には多々あるのですよ……と言いたかった。

地理的な要因で基地が沖縄に集中するという負の側面……県内への移設というその『負の特別扱い』を諦める事によって『プラスの特別扱い』を現実に手に入れる!と発想の転換を考えても良いんじゃないか?……と思うのである。

部外者故の軽い論理かも知れない。
しかし現実に沖縄に取って殆どの日本国民は部外者なのである。

『負けて勝つ!』という積極的諦めを駆使する事が悔し涙の内に死んで行った沖縄の先祖に報いる最善の『現実の手立て』なんじゃないか?……と思うのである。

大抵の特別扱いの沖縄振興策には『反対出来ない大正義』がある筈だ。それを思う存分駆使すれば……大半の日本国民は沈黙するしかないのだから……。

『諦めるの術』は現実において最強手になるのである……。歴史を重んじ大切にすればこそ時としてそれを諦める事が過去の歴史を一番大切にする事にもなるのである。

今生きて在る人は……未来も現実を生きなきゃいけないのだから……。
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