青森の都市郊外を走っても福岡の郊外を走っても、判別は出来ない程、均質な効率が憲法となった大型チェーンの建物が続く。
……等と批判してる内は良かったけれど、地方が疲弊し『効率的じゃくなった』途端に閉鎖され空き家として放置される?なんて現象が語られる様になった。
資本は地方からカネがバキュームされ中央に流せなくなった非効率を無視などしない。
しかし、このファスト風土に暮らす人達は生活拠点をカネの流れに従って東京へは移せない。
『取り残された人達のこれから』は、一体どんな価値観で生きて行けば良いのだろうか?
必然、偶然は別にして東京で暮らす人達には『外部環境が退屈をしのいでくれる』けれど……。
ファスト風土に暮らす人達は自分の内部に『揺るがない何か』を用意しない限り恐ろしく手持ち無沙汰な孤独に押し潰されるやも知れない状況を迎えつつある……それが今だろう。
SNSは全ての人達の『今ばかり』を羅列し続ける。確かに繋がってはいるけれど、人の今の『その前やその後』の変化はスコーンと欠落している。その『情報とやら』は『今消費されて終わる』のである。
トランプの十日前のツィートと今日のツィートでは同じ事柄への意見が真反対なんて事は……よくある。その情報はあくまでもナウ!
『今は……』なのである。
地方のロードサイドのナショナルチェーンを失いつつある『東京じゃない人達』はこの状況をどう迎え撃つのか?……結局『個を鍛える』しかない。ゾンビの住む廃墟と化していく郊外の使い方を『私ナイズ』する能力が決め手になるのだろう。
パソコンのコンテンツではない、私という人間のコンテンツを開発する事。
そのコンテンツを持ち寄り、廃墟のロードサイドにカネの流れと逆の、東京からだけじゃなく世界からの人の流れを実現する?……そんな方法論を必要とする時代なんだろう。
ま、カネという資本はトンでもなく目敏い動きをするって事が、地方のファスト風土の勃興と衰退によって証明されたのは確かである。
中央のカネという資本は地方が軒下を貸して上げたのに母屋は乗っ取ってくれなかった。カネだけ持ってとっとと東京へ帰って行くのである……。
東京文化との乖離を『遅れる』と取るのか?『独自の』と取るのか?そこら辺が鍵となる気がする。
何故?古民家はカフェじゃないといけないのか?『その地方のバーチャンズレストラン』じゃいけないのか?……その地方独自の家庭料理の達人バーチャン達によっての田舎ルネッサンスとすれば良いのにね?
おむすび一つに……折角その地方の食文化があるのだから……自分達の『売れるアイデンティティ』って何よ?……から取り組めば東京の田舎モン達が挙ってやって来るかも知れないよね?……。
江戸末期……薩摩(鹿児島)、長州(山口)という地方が江戸(東京)なんかよりトンでもなく稼ぎ維新へ向かう気力と財力を作り上げた。
自らのアイデンティティに対するプライドとモチベーションこそが鍵となる事を実証している。
世界を見る前に、自分の足下を見ること……それが世界へ開いていく端緒となるんだと僕は思うのです。