東北大震災のとき……。 コロナ禍のとき……。
歌の力とか?唄う意味とか……?
殊に大震災の後……。
自分が知っている人とか、家族友人として関わり生きてきた人の命を失い、住む場所も失い寒い暗闇の中で焚き火の炎を見詰めるしかない人の背中……。
僕は、単純で綺麗で尊い心根から発せられる言葉を笑う者ではない。例えそれが余りにも観念的なものであれ……。それは断言できる。
しかし……しかしである。この手の番組の中で交わされる会話を聞くたびに何処か鼻白み沈鬱な気分に流されてしまうのである。
地獄絵図?そんな風景を前に……歌うことによって?『何かしなくちゃ?』とか『何が出来るか?』などとかいう事を考えるのは独善的で主観的でそして……安易過ぎると感じるのである。
物理的なサポート……カネとか物資とか人手とか?を供するボランティアさんこそが賢明な判断を下しているのは間違いないと思う。
『現実を喪失している人間には現実を再生すること』から始めるしか無いからである。
それでなくとも『人命の喪失感』に打ちのめされている人には現実を再構築する気力なんて湧き様がないから……。
☆〜☆ドリームズカムトゥルー『何度でも』の一節
☆……何度でも何度でも何度でも
立ち上がり呼ぶよきみの名前 声が涸れるまで
悔しくて苦しくて
がんばってもどうしようもない時も
きみの歌を思い出すよ
この先も躓いて傷ついて傷つけて
終わりのないやり場のない怒りさえ
もどかしく抱きながら
どうしてわからないんだ?伝わらないんだ?
喘ぎ嘆きながら 自分と戦ってみるよ
10000回だめで 望みなくなっても
10001回目は 来る……☆
凄く説明的であり分り易い……実際この曲は東北大震災の後……何度も何度も被災者を励ますためにラジオから流されたという……。
こんなエピソードを聞くたぴに僕は映画『炎のランナー』の主人公の牧師の説教シーンの台詞を思い出す。
『皆さんは今、私の話を聞いてヨシ!もう一度頑張ろうと思って下さったかも』……『しかし家に帰ったら楽しみにしていた煮豆が焦げついているかも知れない。ただそれだけのことで崇高な決意は消えそうになるのです』……。
ソレを立て直すのか?そのままヤケに流されるのか?それを決めるのは?……皆さんのココ(自分の胸に手をやりながら)が決めるのです……というシーンである。
ドリカムの吉田美和の歌を聞きながら……ボブ・ディランの『風に吹かれて』の歌詞を思い浮かべた。
一体何が?……こうも違うのだろう?と感じながら……。
☆〜☆ボブ・ディラン『風に吹かれて』の一節
☆……どれ位の人が死ねば
あまりに多くの人が死んだ事に気づくのだろう……友よ その答えは吹き来る風の中にある……☆
主観の中で果てし無く『繰り返し続ける何故?』…なぜ?なぜ?なぜ?…と。
そして何処かで?何時の日か?自然に不意に訪れる『客観的把握』に出会えるんだろうと思う。
ボブ・ディランの歌は淡々と続く……。
得られる結論は『答えは風の中にある』である。
詰まり俺達人間ではどうしようもない?という『解答がないという解答』である。
突如として起こる惨事。何故?死んだのか?理由なんかない。そこに居たからというだけ。
なんて素っ気ない理由なんだろう?
人は自分を客観的に捉えた時……自分の『たかがを知る』んだと思う。
『たかが自分』を知らぬ人は『されど自分』だけに酔い痴れる主観の海に溺れてしまうんだなぁ?……とそんなことを思った。
人を『元気づける歌?』とかで得た元気なんて、家に帰って焦げ付いてしまった煮豆を見るまでしか持たないのである。
たかがを知った人は……人に元気なんて与えられない事を自覚する。
その無力感をベースに『答えは風の中にしかない』と歌われた時……その歌を聞いた人は自分の中の力を自覚し頼ろうとする様になれるのだと思った……。
なにはともあれ……窮地にある人への対応は恐ろしく神経質に自分を検証・監視しなきゃと思う。主観ベースの独善を投げる位なら『何もせず、何も言わず』、ただ側にいて『そっとしておいて上げること』である。
『予定調和のキレイなまとめ』は流石に今のシリアスな時代にあっては醜悪ささえ漂う。
救いよう、救われようのない世界を知った大人になること。
ソレが本当の意味で人の役に立つ人間になる為の第一歩なのである。