先日、マックがフライドポテトの販売を再開となったら『嬉しい!!』この日を待っていた!と若い男がインタビューに答えてた。
仕事を終えて帰り……マックのドライブスルーには毎日、車の行列が……。
僕はマックに何の偏見もないし、メニューの選択肢の一つにも当然チョイスされる力量があるんだと思っている……。
しかし、様々の分野の利便性が発達し、手軽に安価に手に入れることが命?!という一択でのコンビニエンスな暮らし偏重となってるんじゃない?と……このフライドポテトのニュースで感じたのだった。
俯瞰したら案外と食生活に限らず、生活全般の選択肢を失い、『不自由になってる』んじゃね?とふと思ったのだった。
発想が貧しいという様に……発想する選択肢が酷く『貧しくなってる』んじゃないか?……と。
ポテト、じゃがいもの調理法は凄く広いバリエーションがあるのに……ね?
ただ?マックのフライドポテトの様に直ぐ口に出来る手軽さはないのかもね?って考えた。
改めて調べてみた。『コンビニエンス』って意味。
コンビニエンス……好都合。便利。また、便利なもの。手間がいらない重宝なもの。……という意味。
スローフード?なんて高尚な文化人気取りで、この利便性一辺倒の流れを批判はしない。
ただ?……『広い選択肢の豊かさ』を利便性のみと引き換えにしたまんまじゃ……何れ僕達は疲れ果てる?そんな予感がしたのである。
『何を食するか?』……は実に様々の分野へ思考を波及させる力がある。
『服飾品を何処で誰から買うか?』もまた歴史とか?地理とか?と切っても切れない関連性を教え来ることが多々ある。時には昔観た映画の一シーンを鮮やかに脳裏に蘇らせたりもする。
AIが見せてくれるバーチャルな世界も愉しめば良い。
しかしまた自然人でないと感じ得ない『数量化出来ない質的情感』をここ三十年、疎かにし過ぎて来た事にも留意しなきゃ……。
下手すると、凄くチーピーな狭い範囲の選択肢で生きていく羽目になりかねない?……フライドポテト騒動のニュースを観ながら……本気でそう思った。