『今コレが新しい!』という価値提案の乱発が限界点を過ぎて急速に無力化していると……。
健康志向は大正義!とばかりに体に良い食物、ジム、ヨガ、ウォーキングにランニング……などなど余りにも『一辺倒、単一』の煽り、プロパガンダが飽きることなく繰り返される。
食を通して生きてる僕だけど、程々にしなきゃ弊害の方が多いよ?ってなシニカルな思いを抱いてしまうのである。
食事一つ、健康の為だけじゃなく、味わい深さとか?会話の楽しみとか?フィジカルとメンタルの両面において『感じること』こそがその目的でしょ?なぁ~んてね?思うのですよ。
挙げ句は写真撮るのに夢中。口に入る頃にはスッカリ冷えてしまってる。
育ち悪いなぁ?……申し訳ないけど見てて本当に腹立たしくなる。
偏差値と学歴信仰の亡霊に苛まれながら、はずれた奴は捻じくれた挫折感、劣等感を醸成し、勝ち残った?と勘違いした奴は、何のための学業か?と目を覆わんばかりの選民思想に取り憑かれ、人格を自ら最低に導いてる。
そろそろ、『自分で感じ、自分で考える』頭とハートを自らの手に取り戻さないと『自分で演ってる』積りでいつの間にか『演らされてる人間』に成り下がってはいないか?
この曲が『新しい』と聞かされ次の日には更に新しいとされる曲がネットをテレビをジャックする。
しかし、数年経ってふと口ずさむ曲は随分と昔のメロディなのである。
新しい曲は日々巷に溢れてる。
しかし良い曲という奴はほんの一握り。
その良い曲は時に淘汰されることなくどっこいハートに根付いている。
昔、『村八分』っていうのがあった。
何から何まで事の埒外におかれ無視される存在だった。
しかし、『無視条項の特例』があったのだとか。それは『火事と葬式』だった。
火事と葬式となれば『すわ大変!』とばかりに駆け付けたのである。
無視、無関心の対象に設定した相手にも、ちゃんと『演って良いこと・悪いことの節度』って線引があったのである。コレを思慮分別って言うんだと思う。
『新しい』とか『安い』とかの単一の価値観に一喜一憂し、その他の『大切な何か?』に一切神経が回らなくなった僕達ニッポン人……。
『気に食わない』というだけで壮絶なイジメを展開し、果ては寄ってたかって、人一人を死にまで追い詰めてしまったり。
単一の価値観……それはとても楽である。
確かに一切の面倒に頭を悩ませる必要もない。
しかし、フィジカルがそうである様に、頭とハートも『使わなければ退化』してしまうのである。
『感動を必要としない生き方』は成る程、効率的で機能的なのかも知れない。
しかし、人に向き合う態度は必ず自分と向き合う態度とイコールなのである。
上手くやる自分は好きだけど、失敗する自分は大嫌い?
そんな生き方は次第に自分の心の選択肢を狭小にしていく。
立ち回りをうまく運び、自分を傷付けることなく人を傷付ける。
しかし……人は騙せても自分を騙す事は出来ない。その一回、一事が必ず自分に対する信頼を喪失させていく。
だから世相の変化にばかり敏感になる。反比例して自分の危機、リスクには鈍感になるという運びである。
『今、新しい?』そればかりを掻き集めながら個性のない『アリキタリな自分』はそうやって出来上がっていくのである。
砂糖だけのあんこが平板な味しかしないように
塩という対極の要素を持つ事の必要である。
人を愛するのに学歴しか誇る要素の持ち合わせがない平板な人間には、その学歴をベースにした稼ぎしか見えないアリキタリの女が寄ってくる。
今、人を見る為の要素は一つだけ。
自分を見捨てている奴なのか?自分を愛し続けてる奴か?そこを見たら判断が間違うことはないと思う……。
自分を愛している奴は……古さを知りそれを大切にしていながら、自分に絶えず新しい要素を求め続けているものである。