何故?人は『決定することを逡巡するのか?』という問題にデカルトは『完全を求めるからだ!』と説明している……と。
形而上哲学においては、完全も永遠もあり得るが……人間が暮らす現実社会での『行動哲学』では完全も永遠もないのだと……。
興味深い例え話で……森の中で迷った場合を想定して説明してあった。
人が優柔不断に陥るのは『完璧・完全な正解』が欲しいからなのだという説明……なるほどと思った。
森に迷えば、自分が最善と定めた方向へひたすら歩き続ける事が唯一の解決策。
人多く、こっちに歩いてはイヤあっちかな?……となるのは間違うことを恐れた結果の優柔不断だと。結局そんな人は森を抜け出ることが叶わず死んでしまうことになる……。
んで?僕は思った。
先ず、自分とこの自分の演ることは『絶対に不完全だ!!』と繰り返し念じて徹底的にモチベーションしとく事が大切だ…と。
だからこそ、『真摯に自分の最善を考える事が出来る』んじゃないかと……。
今生きていて、今考え行動するならば『今の自分の最善』を頼りに生きていく他、方法は無いのだから……。
今の若い人達が『自前の考え・意見』を言い渋るのは……一重に『間違わない自分』で在りたいからなんだと……気付いた。
『完全な自分、間違わない自分』をベースに考えるならば…何時までも優柔不断は解決しないんじゃね?って。
あり得ない間違うことのない完全な存在という迷信・魔術に取り込まれた彼等を安心させて『今の自分の最善』を考える人間に復活させて上げるには?
オッサン・オバハン達が率先垂範して不完全さを表現し、引き受ける姿を見せ付けて上げるしかないよね?……という何時もの結論に帰結したのでした。