小器用に狡猾に、こんなアプリでこんなんできますけどぉ……なんてソフト全盛の時代が長く続き、利益の上澄みをかっさらって行く手法が持て囃されて久しい。
インスタでの見映えの良い写真とかちょっとした評論で受けてるタレントとか歌手とか俳優等も自分の本業回帰の流れが起きてるかもよ?なんて感じるのです。
刀鍛冶とか刃物職人、織物などの本格派の職人が重要視される様になりつつある。
その流れを作ったのは外国人というのも面白い。下手な偏見なく、色眼鏡を持たない海外の人達が、キチンと日本を評価したらそんな部分だった、という訳だ。
人間の表現活動は即興的なものから、時間を積み重ねて踏み固めた確かな技術だったり、考え方へと基本回帰の様相だ。
コンピューター神話は確かにあった。
日本が戦後二十年積み上げた軽工業の体験をハショッテ、コンピューター技術でカヴァーして一気に追い付いて来たかと思えた韓国の脆さが技術というものの根底の部分の積み重ねの必要を証明している。
現実に必要な手続きを必要な限り行うという誤魔化し様の無い基本的な道筋をヒタスラに続けて来た人が表舞台に登場し始めている。
ソフトやアプリは数を広めダウンロードさせることに意義がある。
結果、皆が知り皆が使う。
だから耳を付けたりひげを付けたりした写真は其処ら中に溢れた事があった。
軽薄短小なITが没個性というのはそんな性質を考えればある意味宿命的なものである。
仮想現実の対局にあるリアル。
時代は一巡り、バーチャルからリアルへとまた、価値基準がシフトしようとしている。
僕達は今基礎を踏まえた『本気の力』を必要としている。考えて見ればそりゃそうだ!って思うのである。
かつてのワードプロセッサーは早く文字を打ってくれただけで……文章を上手くしてはくれなかったし、自分の中身のお粗末さを一切カバーしてはくれなかったもの?……ね。
使用者の大半の動機は年賀状作りだったのを思い出す。その動機以上の必要を持たない人間に、それ以上の使い方は出来なかったのである。
以来ずっと……自分のコンテンツとかスキルを省みず雨後のタケノコ状態のアプリに期待してはアプリにこき使われてる人の図が続いてる気がする。
高い年賀状だったし、只でさえ中身薄い会話を希釈し量を増やしてスマホで頻繁にメールやり取りしてる時間って奴は命そのものなんである。
自分の命という時間の使い道……自分の頭で思考するというアナログ仕様に転換する時期じゃね?……なんて事を最近思うのである。