小さく……『落ちた犬は死ぬまで叩け』とあり……『この国はいつの間にか?正義の人だらけに』……『かくて世論は作られる』とあった。
先般ブログで……中上健二の『鳩どもの家』を例に書いた中身が瞬間浮かんだ……。
傷付いた対象をよってたかってツツキ殺す鳩の秘められた残酷性である。
なるほど……週刊誌が取り上げる位に当たり前となったこの国の多数派の善人達の冷酷さである……。
プチ善人ばかりで出来てる映画は怪しい新興宗教のプロパガンダ映画の様に……とても詰まらない。
幾ら関わり会話しても一人になると何一つ実感が残らない……。
穏やかに見える日常の組織の水面下で密かに行われる『共食いの戦い』……一人一人が身の安全を計る事によって全体がシリアスの度合いを強める……結果としてまた……個人の孤立感は増幅されていく。
『俺らイチ抜ける勇気』が必要なんだと思う……。
自分は綺麗でもなく清廉潔白な正義の人間でもない❗……そう、受け入れ認める事によって初めて『子供染みた正義の綺麗ゴッコ』の無限ループからエスケープ出来るんじゃないか?……と思う。
スタインベックの『怒りの葡萄』の1シーン……労働者自ら先を争いながら自分の賃金を値引きしてより疲弊していく流れそのものがこの国で上演されているかの様である。
何故?猿や人間は群れで生きるか?
個々の弱さ故である……。
喧嘩やイサカイの範疇は大いに結構なんだけど……。
一人一人が深刻に孤立していくのは、人間の本質的強みが失われている事と同義なのである。
余裕を失い逼迫したメンタルは『何故か?より弱き者を探す』のである。
身綺麗な正義で武装した人間達が周囲に視線を巡らせながら次に『落ちそうな犬に目星を付ける』……。
そんなゲームから『降りる勇気・止まる勇気』を持たなければ……。
落ちる犬にも棒で叩くモノにも……得する者はいないのである。
落ちた犬を叩き殺しても……一ミリも幸せにはなれない。
結局、また後ろめたさを一つ仕入れ込み、取り憑かれた様に……次の生け贄を探す事になるだけなのである。
人は時に汚く時に残酷かも知れない。
しかしそれはどうということもない。
問題は当人がそれを自分に許すこと、それが罪なのである……。