西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡65 山鹿市平山

2024-12-25 16:37:04 | 熊本県西南戦争史跡
山鹿市平山に残る西南戦争の台場を探索しました。
平山の台場は堂ヶ原の南東の山と平山城跡に残っています。
堂ヶ原には西南の役台場跡の標柱がありました。










先ずは堂ヶ原の山に残る台場を探しに行きます。
地図では古道が書いてあるのでその道を登って行こうとしましたが、既に消滅していました。
つづら折りになっている果樹園の整備された道を登って果樹園の最上部まで行きます。
こそから尾根沿いに山中に入りました。



しばらく登ると塹壕らしきものを確認。



少し下って塹壕を望むと土塁がしっかりと身体を隠す形状になっていました。
尾根沿いに登ってくる敵を上から射撃したと思われます。
その後、三角点を目指して再び登り三角点を確認。
三角点の北に塹壕が残っていました。





ここは土塁がはっきりわかります。
この山の少し離れた平地には薩軍の繃帯所(西南戦争史跡17)もありますから、この山に残る台場は薩軍側が構築したものだと考えられます。
ここで薩軍四番街大隊の小隊が第三旅団の兵を迎え撃ったのでしょうか。
台場を確認して下山する時落ち葉を踏みしめる音がしました。
人がいるのかと思いましたが、そうではありません。
小さな猪が4匹すぐ下の谷を走っています。
猪を見かけたのは照岳に続き2回目です…
無事下山して次の台場探索に向かいます。



続いては平山城跡です。
登城口近くの前川内公民館に車を止めていたら
地元の方が来られたので駐車していいか訪ねたら大丈夫とのことでした。
更に平山城跡の道も教えていただきましたが倒木で通るのが大変かもと…
とりあえず登城口からスタートします。





林道を登って行くと林道とは別に登城ルートと思われる山道の痕跡を発見。
登城ルートを進みましたがそれが大失敗…
倒木と低木で登るのには大変なルートで、ようやく視界が開けたと思ったら本丸跡の石柱があり、いつの間にか平山城跡に到着していました。



事前に入手していた資料を参考に台場を探します。



城跡の土塁だと思っていたらそこが台場でした。
これは資料がないと判別がつきません。



地元の方が話してくれていましたが城跡は荒れています…



堀切の木橋も2ヶ所ありますが橋は朽ち果てており、渡るのを躊躇してしまいます。





二の丸跡の石柱付近にも台場がありました。





この台場は資料によると官軍が構築したものとあり、薩軍が退却した後に構築されたのでしょう。
堂ヶ原も平山城跡もしっかり台場が残っていたので良い探索になりました。
下山は二の丸跡から林道があるのでそのまま林道を下ります。
途中2手に別れているので右側の林道を進みましたがやはり倒木が多く多少困難な林道でした。

台場の位置



翌日、仲間と待ち合わせして玉東町中央公民館の西南戦争講座に行くと個人的に講座に来ていた西郷南洲顕彰館の職員の方と知り合うことができました。
これも西南戦争がもたらした縁でしょうし、若い方が西南戦争に関心を持ってもらえていることが嬉しく思います。
もっと多くの方に興味を持ってもらえるのを願う1泊2日の西南戦争史跡探索の旅でした。















薩摩猫之介のつぶやき 研究発表会の告知

2024-12-15 13:05:00 | 薩摩猫之介のつぶやき
告知させていただきます。
10月に西郷さん好きが集まって西郷さんや関連する人物、関連する事を研究・学ぶための会を発足しました。

今回は記念すべき第1回目の研究発表会を開催します。
発表者は自分を含めた3名です。

盟中会代表より

『1月25日(土)14時〜16:30迄
鹿児島県立図書館にて
西郷隆盛研究発表会を実施いたします。

主催もとは盟中会です。
顕彰ではなく、等身大の西郷隆盛研究を
目的とする新しい団体です。

僅かばかりですが、参加者も募ります。
参加費も無料です。』

もし関心がある方がおられましたら人数制限と資料の準備がありますので参加希望のコメントをもらえると助かります。









最終告知いたします。
上記参加募集の件、1月18日(土)23:59迄で締切いたします。
すでに参加表明していただいている方々ありがとうございます。
尚、県立図書館研修室利用の場合、駐車場は利用できませんので各自で確保をお願いいたします。




薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡64 鹿児島県薩摩川内市・さつま町宮之城

2024-07-29 22:39:00 | 鹿児島県西南戦争史跡
薩摩川内市における西南戦争

北薩地域での戦闘はあまり知られていませんが官軍(別働第三旅団)は水俣より出水に進軍し、隊を2手に分けて宮之城、川内方面に進もうとします。



明治10年5月2日

官軍の軍艦丁卯が出水米之津に入港して水兵50名を出水麓に配置して別働第三旅団の兵力を増加しました。

薩軍の川内方面指揮長は中山盛高。

中山は桐野利秋の命により鹿児島で武器調達をしていましたが、官軍が海路から鹿児島に上陸してきたので横川に退避します。

そこで振武隊指揮長・中島健彦と監軍・貴島清会い、その後別府晋介・桂久武も集まると会議をしました。

会議の結果、横川に本営を置いて本営には別府・桂を配置、中山盛高は祁答院(薩摩川内市)方面で兵を募り鹿児島での戦闘の緩急により進退する事とし、中島健彦は振武隊を率いて鹿児島に進軍します。

中山は永野村金山(さつま町)で1小隊を募り、続いて黒木(祁答院)・大村(祁答院)・山崎(さつま町)で5小隊を募って6小隊を率いました。

その時、官軍が出水に入り兵を配置している報を聞きます。

中山は小隊を率いて川内川を下り隈之城・向田に陣を構えます。



中山はこの地域で更に兵を募ると26小隊まで増えます。

26小隊は勇義隊と隊名を付けられますが兵士は老壮士族で戦意は低く、装備も火縄銃もしくは無銃でした。

5月15日

出水の官軍屯営に夜襲をして撃破するため中山は出水・野田・高尾野の守備兵に号令を発し、日暮れに向田より3小隊を率いて進軍します。

野田郷の古写真

上の古写真をカラー化


阿久根に着くと出水の官軍は水俣に撤退している報を受け、中山は足早に兵を高尾野まで進めました。



高尾野に着いた中山は官軍の軍艦が入港するのを確認したので海岸に3小隊を配置して、斥候兵十数名を率いて出水に向います。

出水には辺見十郎太の大小荷駄・伊藤祐徳(出水郷士)が大口方面本営と称し募兵9小隊を指揮して周辺の要地を守備していました。

5月20日

官軍の軍艦が阿久根に入港する報を受け、4小隊を派遣して海岸に塁を構築してお互いに砲撃します。

日が暮れて軍艦が沖合に去っていくと4小隊は出水に援隊として向いました。

5月21日

中山は向田に戻り金山(永野村金山)の兵に弾薬と臼砲18門を製造させます。

大口方面の辺見十郎太より援軍の要請があり、中山は5小隊と臼砲2門を派遣。

官軍の軍艦がしばしば川内の京泊・高江に現れるので海岸の要地に塁を構築して守備兵を配置します。

5月28日

振武本営・貴島清より密使が来て『鹿児島での戦闘で城山の敵塁を未だに抜く事ができない。大軍にてこれを抜こうとするので速やかに兵を率いて来てほしい』との要請を受けて中山は砲隊・銃隊の9小隊を率いて鹿児島に向いいました。

6月11日

官軍が大挙して出水に進軍。

薩軍守備兵は奮戦しますが弾薬が尽き、海岸・麓及び矢筈岳の塁はことごとく敗れ紫尾山・宮之城に退却します。

鹿児島の中山はその報を受け大いに驚き、崎元少一を宮之城に中原勇次郎と池田某を西目方面に斥候として派遣、続いて2小隊を入来街道より宮之城へ進軍させ、臼砲5門を鹿児島に留めて夜に中山は7小隊を率いて川内に向いました。

この時宮之城方面の薩軍は紫尾山の間道・泊野・村上・平川などに約10小隊を配置して守備をしています。

それにより中山率いる7小隊のうち3小隊を阿久根に向かわせました。

出水では6月13日から18日にかけて戦闘が繰り広げられますが薩軍は徐々に後退していきます。

この北薩方面の戦闘で伊藤祐徳の隊(600名)は官軍(別働第三旅団)に降伏しました。

伊藤祐徳の降伏には諸説あります。

薩軍側の史料や川内市史では伊藤は密かに別働第三旅団司令の川路利良に通じ、5小隊を率いて機会を待って進撃途中に友軍に発砲して混乱させてから官軍に投降したとあります。

征西戦記稿では伊藤が投降して謝罪書を出したとありました。

今となっては事の真偽はわかりませんが官軍に投降した隊は数多くありますし、薩軍側の史料にも多く書かれています。
(赤塚隊や人吉隊においては投降後官軍の隊として薩軍と戦闘をしています)

伊藤隊だけ裏切り行為が書かれているという事は火の無い所に煙は立たずとあるように空想の話とも思われません。

薩軍側としても伊藤隊だけを貶めて得になる事はないはずです。

考えられるとすれば伊藤隊の郷土出水を占拠した川路が郷土の安堵を条件に薩軍を裏切るよう仕向けたのかもしれません。

当然国の正規軍としての官軍はこのような事を記録に残すこともしないでしょう。

もし、本当に裏切って友軍に発砲したのなら伊藤祐徳の汚名は晴れる事はないですね。

6月19日

別働第三旅団は本営を水俣から出水に移します。

6月21日

別働第三旅団は隊を分けて宮之城方面と川内方面に進軍します。

川内方面は江口少佐率いる第三大隊・砲隊・徴募隊・新徴募隊です。

宮之城方面は第四大隊・第五大隊・砲隊・新徴募隊です。

6月21日

陸と海から阿久根に進軍してきた官軍は薩軍に対して激しい砲撃と銃撃を行います。

阿久根で敗れた中山率いる薩軍は後退して高城郡の一条坂に兵を伏して官軍を襲撃しますが薩軍の兵数は少なく、銃も和銃(火縄銃)で持ち寄った弾丸が合わず使用できないため徐々に後退。

官軍別隊が海岸線より進軍する報を受けて中山は早急に向田に向います。



一条坂の古写真

上の古写真をカラー化


一条坂から後退した薩軍は妹背橋において官軍を防ごうとしますがここも突破されます。



妹背橋で敗れた薩軍は本隊のいる向田に後退して川内川に架かる太平橋を焼き落とし、川内川沿いに陣を敷いて臼砲を3門備え対岸の官軍と銃撃・砲撃戦を繰り広げました。



太平橋付近の古写真
(太平橋は焼け落ちて橋杭木だけになっています)

上の古写真をカラー化


6月23日

官軍は大挙で五代瀬に進んできました。

薩軍は苦戦しますが中山が1小隊を率いて援護しますが、この時川内川沿いの勇義隊兵士達は猫岳に退却していきます。

それにより太平橋正面の兵もほとんど敗れようとしました。

中山は奮戦してこれを指揮して大砲臼砲を発射します。

その時、振武1中隊を率いて貴島清が駆けつけました。

中山は大いに喜び貴島の元に駆けつけましたが宮之城から使いが来て伊藤祐徳の反心にて宮之城が敗れ、現在入来を守っているとの報を受けます。

中山も貴島もその報を聞きますが戦意を失う事もなく戦闘に向い川内川を渡河しようとする官軍を防ぎました。

官軍は砲撃・銃撃の後押しの中、川内川の渡河を成功させ、薩軍の背後の山に登り向田の町に火を放ちしきりに攻撃をしてきます。

隈之城の薩軍は抜刀して奮闘しますが官軍は薩軍を取り囲むよう進軍して来るため持ちこたえる事かできずに市来へ後退して行きました。



五代瀬の古写真


宮里付近の古写真


上の古写真をカラー化




別働第三旅団司令の川路利良は宮之城に入り本営を置きます。

その後病(脚気)を理由に司令官を辞退して東京に戻る事になりますが真実は違うようです。

鹿児島の民衆から恨まれている川路を鹿児島に入れると官軍の行動に支障が出るという理由で病と理由付けして大久保から呼び戻されたとあります。

現に川路の家は民衆により焼かれていました。

川路本人も帰京後、治療や入院もしないですぐに職務に就いています。




【西南戦争史跡】

太平橋架橋碑

この碑は太平橋のたもとに建てられていました。

西南戦争での弾痕が残っています。















泰平寺官修墳墓

薩摩川内市の泰平寺は豊臣秀吉による九州征伐において薩摩太守・島津義久が豊臣秀吉に降伏した寺で有名ですが寺の墓地に西南戦争の官修墳墓があります。

警視隊からなる別働第三旅団ですが旅団の中では戦意が低く、怠慢の兵士も多くいたようです。(西南戦争警視隊戦記より)

そのような兵士は旅団を離れて警視本来の業務を行うように命じられました。

官修墳墓に埋葬された警視達は業務中に蔓延したコレラに感染して亡くなった方々です。















川内市史より








一条坂の激戦地跡

薩摩街道の一条坂。

この街道の上部に中山盛高は勇義隊士等と身を伏せて官軍を待ち伏せするして襲撃しました。











南側から行くと民家の敷地内を通ります。
行かれる際は一声かける事をおすすめします。
民家の方はとても良い方で自分は1時間ほど世間話をして官軍兵士の墓の場所などご教授していただきました。











陽成町の官軍兵士の墓

陽成町に幾つかの官軍兵士の墓と薩軍兵士の墓があります。

薩軍兵士の墓は山の中で入口すら無く行く事ができません。

官軍兵士の墓は数ヶ所ありましたが探し出した場所は1ヶ所のみでした。

陽成町の案内板から場所を特定して探し、その土地の方に聞きましたが1つは自分の墓にあったが行政に頼んで合葬してもらったと言われ、1つは藪の中にあったはずと言われ許可を得て探しましたが既に痕跡もなかったです。

一条坂入口の民家の方に教えていただき、更にその周辺で作業をされている方に聞いてようやく1ヶ所だけ見つける事ができました。

これが現実ですね。

人知れず消えていくのは本当に残念な事です。



陽成町案内板


消えてしまった墓・探し出せない墓








西南戦争供養塔(薩摩川内市祁答院)

ここは宮之城に進軍してきた別働第三旅団の兵士がコレラに罹り供養塔崖下にあった砂取りガマで治療していましたが、ついにがまの中で亡くなったとの事です。

地元の方々に埋葬されて供養塔が建てられ今も綺麗に整備されています。













西方地区招魂碑(薩摩川内市西方)

西方の薩摩街道沿いにこの地から出兵した兵士の招魂碑・出陣記念碑・官軍(別働第三旅団)三等巡査杉原權太郎の慰霊碑があります。

西方地区からは兵士70名・医師3名が従軍しています。

その中から戦死者7名・病死者3名を出しています。(川内と西南の役より)















杉原權太郎は青森の人で別働第三旅団に属していました。

9月1日薩軍が城山に入ると各郷に募兵種々の檄を飛ばし、各戸長宛に回達が送られます。

9月3日には出水戸長・伊藤祐徳まで届きそのまま官軍に渡されました。
(またしても伊藤祐徳…やはり戦闘での裏切り行為は本当だったのかもしれませんね)

北薩方面には巡査捕縛の通知も出ており、戦線を離脱して自宅謹慎中の若い士族達はこの通知を知ると各郷から巡査捕縛の動きが始まりました。

元勇義隊兵士の谷口籐次郎等は高城戸長から武装して往来している巡査を捕縛するよう命じられます。(川内市史より)

その中で殺害されたのが杉原でした。

谷口籐次郎の口述書(川内と西南の役より)



慰霊碑には杉原權太郎とあります。



しかし、別働第三旅団の行動が書かれた西南戦闘日注や警視庁警察職員殉職者顕彰録では杉原權之助と書かれていました。

殉職日と殉職地・等級などから同一人物でしょう。

西南戦闘日注より



警視庁警察職員殉職者顕彰録より



この事から正式なのは杉原權之助だと思われます。

ここに行かれる際は旧街道で道が狭いので気をつけて下さい。











内藤智道の墓(さつま町宮之城)

別働第三旅団の三等巡査・内藤智道は宮之城においてコレラに罹り病死しています。

地元住民により埋葬されて墓と碑文が建てられており、現在も綺麗に整備されています。

病死のためなのか西南戦闘日注にも警視庁警察職員殉職者顕彰録にも名前がありません。









西南戦闘日注には兵士の埋葬地にこの場所が書かれていました。

埋葬地の記録があるのに名簿には名前が無いのは残念な事です。












































薩摩猫之介の散歩 史跡巡りのお知らせ①

2024-07-25 16:45:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争最後の決戦地【延岡市の和田越】

この地には数多くの遺構が現在も当時の姿で残っています。

他県では見ることができない貴重な遺構が身近にあります。
(他にこれだけの規模の遺構があるのは個人では行くことが難しい山岳地帯のみです)

『和田越決戦を語り継ぐ会』が恒例行事の環境整備保全と遺構巡りを開催します。

どちらも参加者募集していますので興味がある方は参加して下さいね。


延岡市和田越古戦場のシダ刈り&遺構巡り

(お知らせ)

 

「西南戦争 和田越決戦を語り継ぐ会」では、8月15日の和田越決戦の前後に古戦場のシダ刈と遺構巡りを行っています。参加されませんか

 

         《シダ刈り

例年、有志や学生の協力にて和田越決戦之地整備・保全を行ってます。

今回ボランティアで参加する延岡看護専門学校の生徒は白衣を脱いで作業服に身を包み、先人達が築いた近代日本の遺産を整備して保全活動を行います。

10月には宮崎県産業開発青年隊野外実習とボランティアによる作業も予定されています。

この活動が貴重な遺産を後世に語り継いでいきます。


  日:8月04午前中(日)

     当日雨天の場合は11日(日)  

     集合時間:8:30

集合場所:東海幼稚園 

     サンサンおひさまランド駐車場

     (稲葉崎町6丁目、長尾山一本松山麓

      域農道沿い、可愛岳トンネル南口か

      ら西へ300m

 

         《史跡巡り

日本の転換期を迎えた明治時代。

時代のうねりと幾多の政策において大きな歪みを生み出しました。

その歪みが国内最後の内戦西南戦争」と云う形で爆発します。

ここ延岡は西南戦争最後の決戦地でもあり、西郷隆盛が初めて陣頭指揮をした場所です。

和田越決戦之地には多くの遺構が残っています。宮崎県内にとどまらず、西南戦争関連遺跡全体の中で、戦跡の規模や遺構の種類・残りの良さは屈指の場所であると評価されています。

サムライ達が築いた塹壕・砲台・堀切・竪堀・切岸などを、実際に自分の目で見て、体で体感して下さい。

明治から令和に紡がれてきた先人達の鼓動や息吹が感じられます。

自分も参加しようと思われる方は、歓迎いたします。シダ刈り・遺構巡り実際に目で見られ・作業されて、体感してください。150年前の戦いの模様が浮かんでくるようです

 

  日:8月18日(日)

     小雨延期の場合は25

所要時間:9時集合、14時解散

集合場所:東海幼稚園 

     サンサンおひさまランド駐車場

 (稲葉崎町6丁目、長尾山一本松山

  の広域農道沿い、可愛岳トンネル

  南口から西へ300m)        ス:小梓峠~長尾山一本松 

     片道1.3㎞×往復=約3.0


  品:昼食・ドリンク・虫除けスプレー

健康状態:健康に問題が無く、往復約3.0

     を完歩できる体力に自信のある方

  費:無料

参加申込:不要、当日集合場所にお越しくだ

     さい。

問合電話:語り継ぐ会会長・牧野の携帯電話 (☎080-1750-5139

 



和田越決戦之地案内

薩摩猫之介の散歩 番外編③

2024-07-15 16:17:34 | 宮崎県西南戦争史跡
明治10年8月17日午後10時

官軍に重囲された薩軍は可愛岳突囲を決行します。

薩軍前軍経路探索で書いてあるのですが可愛岳突囲での前軍指揮者の名前が2通りある事に疑問を持っていました。

鹿児島県史料の薩軍兵士上申書と資料を全て読み、多くの書籍を見る事で自分なりに解決できたと思いここに書くことにします。

史跡の情報ではないので関心のない方はスルーして下さい。


疑問1

2通りある突囲の前軍指揮者

①相良長良・貴島清・松岡岩次郎

②辺見十郎太・河野主一郎

疑問2

薩軍の戦闘した場所と時間


この2つの疑問を解明すれば前軍の行動がわかってきます。

相良長良の上申書





丁丑ノ夢





松岡岩次郎の上申書



河野主一郎の上申書







前軍指揮者に選ばれた松岡岩次郎の上申書には詳細は書かれていません。

相良長良の上申書に付け加えているのが丁丑ノ夢ですね。

河野主一郎の上申書にも相良長良等が指揮者とあるので相良・貴島・松岡が前軍指揮者で間違いないでしょう。

丁丑ノ夢で前軍に池上四郎が曽木から高鍋に向かうよう西郷隆盛の命を伝えたとありますがそれも事実でしょう。

大磯考平太の上申書



和泉祐太郎の上申書



丁丑弾雨日記(河東祐五郎手記)



この上申書や日記で延岡方面から祝子川に転進した事がわかります。

可愛岳の百間ダキ下を潜行する前軍ですが中ノ越に迫る頃、桐野利秋・辺見十郎太が駆けつけて『敵の篝火が多い。暫くここに兵を止めて全軍が来るのを待ち、一気に敵塁を衝こう』と言いますが、相良と貴島は『先鋒の任を受けたからには一歩も止まれない。進んで死あるのみ』と拒みました。

本営付の池上・桐野・辺見が前軍に駆けつけるのはおかしいと言われる方もいますがこの時は既に軍は解散しており、司令や隊長などなかったと思われます。

池上は西郷のそばにいたので伝令になり、桐野・辺見は中隊の指揮者として行動の決定権があるので駆けつけたのでしょう。

主要な人物が西郷のそばを離れる訳がないと思う方もいるでしょうが可愛岳突囲での文献で全く名前が出てこない人物がいました。

村田新ハ・別府晋介の2人が西郷から離れなかったと思われます。

そう考えると辻褄が合うんですよね。

薩軍が見た多くの篝火は第ニ旅団本隊の6中隊でしょう。
(6中隊の兵数なら篝火がすごかったと思われます)

第ニ旅団本隊の経路



第ニ旅団本隊は中ノ越辺りから森木ノ坂を下り俵野へ向かっています。

桐野・辺見の言葉を拒んだ前軍は篝火を避け暗闇の方(長尾山からの尾根)に進路を変えます。

【官軍は哨兵が足りず中ノ越~長尾山近くまで空白地帯でした】

しばらく進むと官軍に隊列を断たれました。

薩軍の隊列を断ったのが第ニ旅団本隊です。



上記の地図で両軍が交わっているのがわかります。

6中隊が隊の間を進軍するので薩軍はしばらく動くことができなかったでしょう。

この時前軍が前後に分かれたと思われます。

前軍の後ろ側にいた河野主一郎は中軍に戻って西郷に官軍を奇襲する提案をしました。

西郷はその提案を許可したので河野と辺見が中ノ越から六首山の少ない第ニ旅団哨兵に午前4時半頃、英式喇叭と1発の銃声を合図に抜刀して斬り込みます。

いきなり薩軍が斬り込んできたので第ニ旅団哨兵は狼狽して六首山後方西側の小畑山へ後退しました。

六首山での戦闘を知った小畑山麓の官軍は桑平や浜砂から援隊を送りますがどちらも急斜面な山道なので一度に援隊が着かず、薩軍が押しては官軍が押し返すという状況を3度ほど繰り返します。



徐々に官軍の援隊が増えてくると薩軍は六首山から小畑山を抜け浜砂まで進むことを諦めて六首谷から浜砂に迂回して進みました。

午前8時頃浜砂で戦闘があり、薩軍は浜砂の食料課から食料を奪って祝子川の上流1kmほどの宮ヶ谷から再び山へ入ります。
(浜砂集落には祝子川が流れているのでその方面を目指しでいたのでしょう)



薩軍本隊は可愛岳山頂西側に登り山頂から北にある第一・二旅団牙営地に午前6時頃攻撃します。

六首山での戦闘を薩軍数人が仕掛けた小競り合いと牙営地で楽観視していた2人の旅団長野津少将・三好少将や第一・ニ旅団哨兵は薩軍の奇襲に驚き野津少将と三好少将は取るものも取らず逃げ、哨兵は戦闘で倒れ薩軍本隊は牙営・砲廠部を襲い、銃・弾薬・食料を奪って北西尾根に進みました。



第ニ旅団本隊に分断された相良率いる前軍数十人は長尾山尾根を進み空が明るくなった頃官軍に見つかり塹壕から銃撃を受けます。

相良達は銃撃の激しさで急斜面を下りて身を隠したようです。

この場所が1番不明でしたが【西南戦争之記録第四号】の中で著者・高橋信武氏『和田越の戦闘から可愛岳の戦闘までの経緯』に答えがありました。

相良に銃撃した官軍の塹壕がわかったのです。



この塹壕を空中写真で合わせると



更に3Dにすると



官軍の空白地帯を進んだ相良達が向かった場所でした。

相良達が戦闘した場所を六首山とか中ノ越と言われる方もいますが六首山での戦闘は午前4時半頃、相良達の戦闘は空が明るくなってからなので時間が合いません。

それに相良達は官軍に見つかり銃撃を受けているのに対し、六首山では薩軍が官軍に奇襲していますから戦闘状況も異なります。

仮に相良達が六首山周辺で戦闘したとすれば相良達との戦闘後に辺見と河野が再び斬り込みます。

その状況で官軍哨兵が2度目の攻撃に狼狽するとは考えられませんし、空の明るさも辻褄が合いません。

先に辺見・河野が六首山で戦闘をしたのなら相良達は空が明るくなるまでの約30分ほど何処で何をしてたのでしょう。

それに六首山では戦闘が既に始まっています。

あと薩軍の隊列を断った官軍は何処を進軍してたのでしょうか。

この事が常に疑問でしたが今回の解明で全て辻褄が合う結果になりました。



相良達と戦闘したのは第ニ旅団哨兵の右翼隊でしょう。

弾薬が少なくなった第ニ旅団哨兵右翼隊が第ニ旅団本隊に借りた事も説明がつきます。

既に六首山で戦闘が始まったことで山を下りていた第ニ旅団本隊の1中隊が引き返しましたが森木ノ坂下で上から銃撃する薩軍に足止めされていました。

長尾山尾根沿いを第ニ旅団哨兵が駆けつければ弾薬を借りることができます。



相良達は銃弾が降る状況で急斜面を中々這い上がることができず、夜を待って斜面を登り再び官軍に攻撃したのは19日でした。

攻撃を受けた官軍は第三旅団からの援隊2中隊で相良は傷を負って谷に墜落、川久保十次は戦死します。

相良達前軍は18日には壊滅しており、辺見・河野達が本隊とは別行動を取って前軍として動いたことが前軍指揮者が2通り書かれている結果になったという事です。

これで可愛岳突囲での疑問の全てが判明しました。

参考文献
鹿児島県史料西南戦争1巻~4巻
薩南血涙史
征西戦記稿
西南戦争之記録第4号
西南記伝