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今日の朝刊
今日は午後から「プール」へ。帰りに企画展「三浦一族」を見てきた。
◆企画展「三浦一族」
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衣笠さくら祭70周年記念事業
「三浦一族」企画展
令和4年1月28日(金)~3月31日(木)
協賛 かながわ信用金庫、湘南信用金庫、よこすか葉山農業協同組合(50音順)
協力 衣笠商店街 歴×トキ
主催 衣笠観光協会
後援 神奈川県 横須賀市 横須賀市教育委員会 一般社団法人横須賀市観光協会
展示構成(パネル展示)
第1章 三浦一族と城
三浦一族関連略系図や全国の三浦一族マップ、エピソードを紹介します。
第2章 三浦一族人物列伝
平安末期、大きな勢力を持っていた三浦一族の中で、「三浦一党出陣武者行列(衣笠観光協会主催)」に参列する武将を中心に、絵や写真、エピソードを用い人物紹介していきます。
第3章 源平合戦図屏風(三浦・畠山合戦図)
兵庫県立歴史博物館所蔵の合戦図です。臨場感あふれる合戦の様子を、じっくりごらんください。
第4章 三浦一族史跡マップ
第1章~第3章で紹介した衣笠地区の史跡や文化財等のマップです。身近な史跡を訪ねてみませんか。
第5章 三浦一族の重要文化財
衣笠地区を中心とした三浦一族に関する重要文化財を、写真で紹介します。運慶や運慶に近い仏師の作品や中国伝来の像などは、三浦一族の仏教文化を伝えるとともに、貴重な仏像等を所有することができた当時の三浦一族の勢力や背景を知ることができます。
第6章 コラボ展示
隔年で4月に行っている、「三浦一党出陣武者行列」の写真を展示してます。
※今後も、コラボ展示の内容は充実・更新していきます。
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「九尾の狐(玉藻前-たまものまえ)と三浦介義明伝説」
平安時代、鳥羽上皇に美貌と博識により寵愛(ちょうあい)された女官「玉藻前」がいた。
しかし、上皇は次第に病に伏せ、朝廷の医師にも原因がわかりません。
陰陽師・阿部泰成は玉藻前の仕業と見抜き、真言を唱えると、変身を解かれ、「九尾の狐」の姿で脱走し、行方をくらました。
その後、那須野地方婦女子をさらうなどの行為が宮中に伝わり、鳥羽上皇の命により、三浦介義明、上野介広常他を将軍として討伐軍を派遣した。
討伐軍は、九狐の妖術に苦しめられましたが、次第に追い込み、三浦介義明が放った二つの矢が命中し、九尾の狐は息絶えた。
その後、九尾の狐は巨大な毒石変化し、近づく人間や動物の命を奪った。
村人はこの毒石を「殺生石」と名付けた。
南北朝時代、会津の玄翁和尚が殺生石を破壊し、治まったと言われている。
九尾の狐(玉藻前)伝説は、室町時代の御伽草子、能「殺生石」、江戸時代の多くの人形浄瑠璃や歌舞伎に作品化されている。
衣笠地域運営協議会・衣笠環境協会
=補足==========
◆平安時代:794年~1185年頃 桓武天皇が平安京(現 京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指す。
◆鳥羽上皇:鎌倉初期(在位1183~1198)の第82代天皇。 高倉天皇を父とし、七条院坊門殖子を母とする。 1183年に平氏が安徳天皇を擁して西走した後、祖父後白河法皇の院政のもとで即位。 1192年法皇没後は、自らが政治を執り、譲位した後は、1198年~1221年にかけて院政を行った。
◆陰陽師・阿部泰成:陰陽師の命令で動く霊的存在の式神や、人間の形に紙を切り取ったヒトガタを使った呪術で鬼と対決する、そんなイメージの強い陰陽師ですが、本来の陰陽師は、飛鳥時代につくられた官僚組織のひとつ、陰陽寮に所属する官職でした。
陰陽寮では、古代中国の陰陽五行説から発展した陰陽道を使って、国家に関わる占いや、暦の作成、時間の測定、天文占星術などを行いました。当時、天体の現象は「天」が地上の支配者に裁断を下す前兆であり、支配者の行為も天体に影響すると考えられていたことから、陰陽師は天と地上の天皇をつなぐ重要な役割を担っていたといえます。
安倍晴明-吉平-時親-有行-泰長-政文-泰行
吉昌 章親 国隋 泰親-李弘
奉親 業俊
泰茂
<泰成>
親長
◆真言:1.真実の言説。仏の言葉。2.密教で、真理を表す秘密の言葉。呪(じゅ)。
◆①わずか140年前まで
人の住めない荒野が広がっていた日本最大の扇状地「那須野が原」。
明治政府の中枢にあった貴族階級は、この地に私財を投じ大規模農場の経営に乗り出します。
近代国家建設の情熱と西欧貴族への憧れを胸に荒野の開拓に挑んだ貴族たち。
その遺志は長い闘いを経て、那須連山を背景に広がる豊饒の大地に結実しました。
ここは、知られざる近代化遺産の宝庫。
那須野が原に今も残る華族農場の別荘を訪ねると、近代日本黎明期の熱気と、それを牽引した明治貴族たちの足跡を垣間見ることができます。
②那須野地方:毎年10月、那須塩原市黒磯の那珂川河畔運動公園で開かれる「那須野巻狩(まきがり)まつり」は1193(建久4)年、鎌倉幕府を開いた源頼朝が那須野が原で大規模な狩りをした史実にちなんだイベントだ。勇壮な巻狩太鼓に、巻狩踊り、直径2・2メートルの大将鍋などを使って約9千食が振る舞われる巻狩鍋で大いに盛り上がる。
800年以上前の巻き狩りも頼朝によるビッグイベントだった。軍事演習であり、鎌倉幕府の権威を天下に知らしめる政治ショー。大勢の勢子(せこ)が獲物を追い込み、武将たちが獲物を射る。兵の動員力を誇示する一方、鹿を射るか射損じるかは神の意思を問う宗教的な意味もあった。
頼朝は前年、征夷大将軍となっており、1192年が鎌倉幕府成立の年と覚えた人も多いのではないか。「1192(イイクニ)つくろう鎌倉幕府」のゴロ合わせである。最近は、平家が滅亡した1185(文治元)年、頼朝が朝廷から守護・地頭の設置により軍事・警察権を公認された時点を鎌倉幕府の出発点とする説が教科書で紹介され、頼朝の東国支配権を公認した1183年の「寿永二年十月宣旨(せんじ)」も注目されている。
いずれにしても1193年、頼朝は関東一円を巡検。信州境の上野・三原、那須野が原、富士山麓の順で巻き狩りを挙行。それぞれ関東外周部の絶対防衛ラインともいうべき地域だ。
◆三浦介義明(みうらのすけよしあき):平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介・三浦義継の子。和田義盛、三浦義村の祖父。
退治を命じた「鳥羽院」は三浦介義明、上総介広常、千葉介常胤に九尾の狐退治を命じる。
九尾の狐のその後:那須野に逃げた九尾の狐は、ついには三浦義明らの討伐軍に討たれてしまう。
砕かれた殺生石は各地へと飛散したと伝わる。
そのうちの一つが美作三浦家が城主の勝山の化生寺にある。
那須野からここまではえらい距離だが、九尾の狐を退治した三浦義明とつながる伝承だろう。
三浦介義明が放った矢で首筋を貫ぬかれた九尾の狐
◆桓武平氏の平良文(たいらのよしふみ):平安時代中期の武将。桓武天皇四世。平高望の五男。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。
◆上野介広常:上総 広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。
房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。
◆南北朝時代:日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷ったユリウス暦1337年1月23日(延元元年/建武3年12月21日)、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一したユリウス暦1392年11月19日(元中9年/明徳3年閏10月5日)である[2]。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある。
◆会津の玄翁和尚:越前国に生まれ、全国行脚を繰り返す。殺生石を退治する話しは、あまりにも有名。 やがて、会津をこよなく愛し示現寺で安らかに眠っている。
本名は心昭、字を源翁 (玄翁・玄妙とも)、通称は源翁和尚・源翁禅師、諱を能照法王禅師・法王大寂禅師、号を空外と称する。
曹洞宗本山であった總持寺で峨山禅師に師事すること10年、門下二十五哲の1人に数えられた南北朝時代の曹洞宗の高僧。
印可証明を与えられてからは衆生済度・布教のために雲水となり衆生済度に努め、諸国行脚の末に会津の地/慶徳寺と示現寺を布教の拠点そして終焉の地として思い定めた。
その後も行脚は続け、北は秋田から南は鹿児島までの広範囲な諸国に30ほどの寺院を開創して、曹洞宗の勢力を大きく拡大させた。
◆室町時代:鎌倉幕府が滅んだのち、後醍醐天皇が自ら政治をおこないましたが、不満を持つ武士を集めて兵をあげた足利尊氏によって、わずか2年で失敗に終わりました。
後醍醐天皇は奈良の吉野に移り(南朝)、尊氏は京都に別の天皇を立てて(北朝)征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。足利氏の幕府がつづいた約240年間を室町時代といいます。一方、南朝と北朝が各地の武士を味方につけて長い間争った期間を、特に南北朝時代といいます。
◆御伽草子:『御伽草子』(おとぎぞうし)は、鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式。お伽草子、おとぎ草子とも表記する。
広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる。
◆能「殺生石」:玄翁という高僧が下野国那須野の原(今の栃木県那須郡那須町)を通りかかります。ある石の周囲を飛ぶ鳥が落ちるのを見て、玄翁が不審に思っていると、ひとりの女が現れ、その石は殺生石といって近づく生き物を殺してしまうから近寄ってはいけないと教えます。玄翁の問いに、女は殺生石の由来を語ります。
◆江戸時代の形浄瑠璃や歌舞伎:昔、天竺では千人の王の首を取ったという班足太子(『三国伝記』)の塚の神、唐土では周の幽王の后褒姒、または殷の紂王の妲己となって国を滅ぼした(『十訓抄』)妖狐が日本に渡来する。北面の武士坂部行綱の息女藻女は、和歌の才によって宮中に召され鳥羽院の寵を得て、神泉苑水神祭に身体から光明を発したことによって玉藻之前の名を賜る。そして帝が御脳の原因を玉藻之前の怪異によるものだと占った陰陽師安部康成がこれ調伏したので、玉藻之前は正体を現し、下野国那須野の原に飛び去った。勅命を受けた三浦之助、上総介はまず試みに犬を射てみせた。これが犬追物の始まりとなった。妖狐はついに両人に射殺されたが、その執念は触れる者に災いをおよぼす殺生石として残り、人々を悩ませた。後に曹洞宗の僧、玄翁和尚が通りかかり、杖で一打ちすると、二つに割れて中から石の霊が現れ、成仏して消え、祟りを止めたという。