今日は半年ぶりに鈴木明子先生の講義でした。
パワーポイントを駆使して、{清少納言}を取り巻く人物像や、当時の風俗
(衣装)などの模様を画像・原文・その意味などを説明してくださり、
ちょっとした豆知識も交えた、たいへんわかりやすい講義内容でした。
『枕草子』の内容が現在でも十分に通じるものであることも説明され興味を
持たせていただきました。
清少納言
『枕草子』の作者。生没年(966?-1025?)不明。実名不明。16歳ころ結婚、
息子を生み、25.6歳で離婚。27歳ころ一条天皇の中宮定子のもとに宮仕えし、
枕草子を書く。34歳ころ定子死亡に伴い宮仕えをやめた。再婚後、夫の赴任地に同行
娘を生む。60歳ころ死亡か?
(1)生い立ち
①歌人の家;曾祖父(清原深養父)・父(清原元輔)は著名な歌人
②父の人柄;83歳の長寿。『今昔物語』にひょうきんな一面が記されている。
③夫の人柄;世間の評判⇒武勇あり・見目好し、清少納言⇒和歌を嫌う武骨な男
(2)離婚と宮仕え(中宮定子の女房となる)
①清少納言の仕事観;生ひさきなく、まめやかに
一度は仕事をしてから結婚したほうが良い
②中宮定子;平安中期に政権を握り、関白となった藤原道隆を父に持つ。
才色兼備の優れた女性。清少納言は敬愛の念を持って仕えていた。
③定子後宮の雰囲気;母親、本人とも漢文の才能を高く評価され、機知にとみ、
華やかな雰囲気に包まれていた。
④初出仕のころ;緊張しており、同室の女房から積極的になるよう指導された。
⑤才能を発揮;故事や漢詩などの内容をよく理解し、機知にとんだ対応をした。
⑥陽気な性格・・◎一番に思われたい 二番でダメ、一番になりたいという。
◎身分の高い人を称賛し、身分の低い人をさげすむ
(3)中関白家の没落;宮仕えから2、3年後に中関白家であった定子の実家が没落
・藤原道隆 病没 ・定子の兄弟 流刑 ・定子は妊娠中に出家
・母貴子 心痛のため病没 ・中宮御所 全焼(放火か?)
①里に引きこもる;清少納言は同僚からのけ者にされ耐えられなくなった
②枕草子の執筆;引き籠っていた時機に中宮から紙を贈られ「草子」などを
作りふさいでいた心をまぎらわした。
③悲運のなかでも「をかし」;内裏への通勤路で、従者の声を聴きわけ誰の行列
かを当てたりした。
④定子崩御の少し前;定子を見限って去っていく乳母がおり『枕草子』の中で
はじめて『あわれ』という言葉を使った、
清少納言は定子の死の時まで仕え続け、定子の死後、他所へ宮仕えしなかった
鈴木先生の豆知識 本文中の下線部分の内容について
*后妃の序列 (1)皇后
中宮(もとは太皇太后・皇太后・皇后の別称、中宮定子の
時から皇后と等しい独立の地位に)
(2)女御(にょうご)
(3)更衣(こうい)
*女房とは;・房(部屋)を与えられ主に使える女性
・日常生活への奉仕(入浴・整髪・着衣・食事の給仕など)
むしろ・話し相手・教育係・特に取り次ぎ などが重要な仕事であった
*清少納言を分解すると 清・少納言 となり、清原家の少納言ということ
ちなみに 紫式部は 紫・式部 ということになる。 本当は 藤・式部
(藤原家出身)であるはずだが、『源氏物語』紫の上 が有名であり、紫式部
と称されるようになったようだ。 ちなみに式部の方が少納言より官位は上位
『枕草子』の特徴
枕草子は定子に対する明るい賛美が基調(をかし・めでたし)
宮仕え期の大半を占める悲運の時代についてはほとんど語らない。
枕草子の明るさと現実との乖離をどう解釈するかが古くから議論の焦点
となってきた。
午後はCAが奈良県から借りてきた DVD鑑賞をしました。
天智天皇と持統天皇・奈良まほろまん(行基など)約一時間、講義で学んだ人物
中心であり、復習の意味も含めて有意義な内容でした。