スケッチブック

写真と文章で、日常を記録に残す

明治村五丁目他 最終回

2005-12-04 10:52:29 | 観光
表の写真は、ご存じ旧帝国ホテル中央玄関。完成は大正12年。関東大震災の直前であった。設計はアメリカの代表的建築家のフランク・ライト。構造は鉄筋コンクリートと煉瓦や大谷石などでできている。多くの場所にヒノキやスギが使われ石と木が一体となっている。あの激しい揺れにもビクともせず、人々を驚かせた。新館を建てるにあたって、昭和42年に解体され、中央玄関だけがここに移された。移築費用として当時のお金で13億円かかったと言われている。裏の写真はホテルの前の広場で、コロッケーを売っていたので休憩を取った。画面の中に皇居正門にあった飾電灯が見られる。
レトロな高級馬車。復原費用に3000万円かかったとガイドが言った。500メートルほどの馬場を一周して500円。私たちは乗らなかった。裏は京都の路面電車。チンチン電車の名で良く知られている。
旧二重橋の飾電灯。四つの内一つがここに移された。ドイツ製で、芸術的価値が高いという。現在の電灯と比較してみてください。現在は電灯が完全な球体になっている。裏の写真はラフカディオ・ハーンが東京滞在中に、よく通った静岡県焼津(やいづ)にある魚屋。建物の全体を捕らえず駄菓子屋が面白かったのと、私の祖母の家に似ていたので撮影した。内部の片側に土間を通した作りで、町屋ではよく見かけられた。
現在の二重橋飾電灯

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10 コメント

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最後の五丁目も最高! (あまもり)
2005-12-04 12:59:19
もう最後なんですか、なんだか寂しい。もっと見たいような。

レトロな高級馬車、乗ってみたいですね。でもどこ行くにもジーパンの私では似合いそうにもない(笑)

京都のチンチン電車がここに! 嬉しいですね。いいことしてますねぇ。

駄菓子屋さん、北陸の親戚(今は居ませんが)の家に遊びに行った時に見た覚えがあります。こことそっくりでした。そこはお菓子以外にノートや鉛筆も置いていました。小泉八雲も通ったここはお魚と駄菓子だったんですね。コンビニのハシリですね。
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あまもりさん、こんにちは (polo181)
2005-12-04 13:43:20
コメントを有難う。最高!なんて誉めてくださって、とても嬉しいです。それじゃぁ、調子に乗ってもう一日だけスライドショーで明日アップしますね。笑レトロな馬車は見上げるように大きくて圧倒されますよ。京都のチンチン電車は修理をして今でも村内を走っています。乗車できます。そうでしょうね。私も祖母の家に遊びに行くと全く同じ様な家でした。土間があってね、とても懐かしい。(゜ー゜)(。_。)ウンウン 、駄菓子屋にはノートや鉛筆がありましたね。この町屋はもとは魚屋だったのだけれど、ここ山の中ではそれを再現できませんから、明治の雰囲気を出すために駄菓子やとして使っているだけです。小泉八雲はこの家の二階で寝起きしたそうです。全体像がないので、とても残念。
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愈々最終回ですか (じゃこしか)
2005-12-04 17:00:16
 poloさん今晩は。

明治村も愈々今日で最後ですか。

 旧帝国ホテルの玄関の重厚さは流石で、目が惹き付けられました。それに馬車ですが、どんな馬が牽くのでしょうか。また八雲愛用の町屋の元魚屋の駄菓子屋の雰囲気は、懐かしく昔の10銭店を想い出させて呉れました。



 名古屋には義弟が居るので、今度こそ車の素通りでなく、ゆっくりと見物したいものです。

 それにしてもこのシリーズとても楽しかったです。本当に有り難う!
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懐かしい風景 (スイポテ)
2005-12-04 19:30:50
モダンでがっちりした明治時代の建物、移築に費用がかかってもこうして保存されていることは誇りですね。

懐かしいのは駄菓子屋さんの写真。

私の祖母も「何でも屋」駄菓子から生活用品、文房具、ちょっとした衣類まで小さな村の中で売っていました。

おまけに近隣まで背中に荷物をしょって行商も。

明治の人は働き者でした。(笑)

その祖母のお店を思い出しました。
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じゃこしかさん、こんばんは (polo181)
2005-12-04 21:10:11
コメントを有難う。「最終回」と書きましたが、もう一回だけ番外編として明日掲載します。よろしかったら、ご覧下さい。馬車のことですが、馬は一頭で種類は分かりませんがスラリとした形の良い馬でした。10銭屋さん、ありましたね。硬貨をしっかり握りしめてあれやこれやと物色をする時間が楽しくて、私の場合は酢昆布を買うことが多かったです。そのせいか、今でも酢の物が好きです。今度行ったら是非立ち寄って見てください。男爵イモコロッケがとても美味しいですよ。明治の味がします。
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スイポテさん、こんばんは (polo181)
2005-12-04 21:19:58
コメントを有難う。古くて廃棄される運命にある建造物を貰い受けて移築する。その維持管理には苦労することでしょう。今回は名古屋で法事があったので、これ幸いと訪れたのでした。何度も訪れていますが、決して飽きることがありません。昭和記念公園もそうです。八雲が愛した町屋も今回、再発見でした。魚屋変じて駄菓子屋になっていました。懐かしいですね。お祖母様が「何でも屋」だったとすれば、この写真にはとても親近感を持たれたことでしょう。昔の人はバイタリティがありましたね。
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駄菓子屋さん (熊子)
2005-12-04 21:45:07
我が実家もいろいろと変遷を繰り返し、最後は駄菓子も売るお店でした。こうして見ると、土間が実家にもあった記憶が蘇りました。そういえば土間でお釜のご飯を炊いていた母の姿が遠い昔の記憶にあります。あんたはよく記憶しているね、いずれもあんたが5歳ごろで商売は止めていると長姉より言われました。明治の良き建築、良き空気、良き人間模様、、、大事に保存していってほしいです。
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熊子さん、こんばんは (polo181)
2005-12-04 21:58:20
コメントを有難う。熊子さんも土間のある家をご存じでしたか。(案外古いなぁ)昔の町屋はみなこのような作りでした。土間をカギの手に巡らせて、まずはヘッツイさん。(かまど)つづいて井戸です。雨風に打たれなくても炊事ができるので、主婦は随分と楽になったものです。それ以降、洗濯機や電気釜などの発明品があって、さらにさらに主婦は楽になったのでした。明治最後の生まれの人は現在確か92才です。どんどん消えて行きますが、明治村では着々とこの時代のものを集めています。
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井戸もありました (再度の熊子)
2005-12-05 00:50:01
そうです、井戸もありました、年に一回粉を入れて消毒も記憶にあります、井戸の後に協同水道で鍵でポンプを開けて、冬なんて母は真っ赤な手で洗濯していました、でもそれも五歳頃までですから、おいらの目に焼き付いた記憶です。協同ポンプの後に各家庭に水道です、その後に洗濯機、テレビ、冷蔵庫かな、テレビは床屋さんに集まって見ていましたから、相撲やプロレスは大人達が騒いでみていた記憶があります。昔話をさせたらね、ポロさまたちよりかなり遅い文明開化の北国模様ですよ、なんせ、小学一年まで固形洗濯石鹸で行水風呂でしたから、すんごいべさ!そんな釧路の駅裏物語でした。みんなこうでしたから、貧しかったけど肩寄合った北国でした。古いと言われても、そんな時代でした。シャンプーが出て来てシラミやノミも激減です。DDTも小学三年まで学校で撒いていましたよ、ポロさまは知らないべさ。えっへん(^ー^)
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熊子さん、こんにちは (polo181)
2005-12-05 13:34:06
コメントを有難う。ここまで詳しく覚えているなんて驚きです。しかも、その内容は私が体験したのとほぼ同じだから、ひょっとして年齢を偽っているのでは?笑。ハハハ やっぱりそれほど遠い昔ではないということでしょう。固形洗濯石鹸で行水風呂は、私だって経験がありませんからね。ハハハ、DDTまで知っているのですか。信じられないですよ。私は知っていますよ。小学生の頃に粉末のDDTを容器をペコペコさせて背中や胸に振りかけましたから。どれらい体験の持ち主ですね。たまげたわ。実際。
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