泉岳寺 2005-11-04 12:28:07 | Weblog 港区高輪(たかなわ)泉岳寺。赤穂四十七士を弔った場所としてあまりにも有名。歩いて二十分ほどのところに、大石内蔵助他十六人が切腹した場所が保存されていた。他の三十名が切腹した場所も探したが道路があまりにも入り組んでいて見つからなかった。東京からJR山手線外回りで新橋へ、都営地下鉄浅草線で泉岳寺。徒歩5分。これが一番分かりやすいだろう。討ち入りが十二月十四日だから、その日は大変な人出だろう。三百年の時を経てもまだ義に散った人々への哀悼の気持ちからか、次から次へと人が来て線香の束を持って全部の浪士の墓前に手向けていた。堀部安兵衛の墓前にはカップ酒とコンビニのソバが供えられていたのにはぐっと来るものがあった。 大石内蔵助 首洗いの井戸。武士道がもはや時代遅れと見なされていた頃。小藩の若き藩主の無念を晴らすべく立ち上がった男達。家族を捨て恋人を捨て、ただひたすら仇討ちに突き進んだ浪士達。にっくき吉良上野介の首を洗って主君の墓前に捧げた。大石内蔵助享年四十五才、息子主税は十六才だった。 « ベンチがあると、こうなって... | トップ | 商品名をあげて申し訳ござい... »
9 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 芝高輪泉岳寺 (anikobe) 2005-11-04 17:56:01 一度だけ行った事がありますのに、一枚の写真もアルバムにないので、是非みたいばしょだったのです。この山門には記憶があります。東京散策のリクエストをして、poloさん、行ってくださった事、とても嬉しく思います。昔行ったときも、線香の煙が漂っていました。今もそうなのですね。もうすぐ、討ち入りの日がやってきますね。有り難うございました。 返信する 泉岳寺 (あまもり) 2005-11-04 18:29:54 このお寺はテレビでしか見たことないです。それもちらっとしか。吉良邸から泉岳寺までどれほどの道のりか知りませんが、首を持って返り血を浴びてるだろう志士たちを受け入れたこの寺の住職は肝の据わった人だったんでしょうね。浅野家の菩提寺であったとしてもです。首洗井戸に「川上音」まで読める字がありますが、ひょっとしてあの川上音二郎でしょうか。オッペケペーで一世風靡をしたという。 返信する anikobeさん、こんばんは (polo181) 2005-11-04 20:51:38 コメントを有難う。東京に居て東京を知らずは私たちのことでして、妻も私も初めてでした。元来人混みが好きでなく、もっぱら田舎を目指していました。でも、あのフリーパス以来出歩いています。高輪3丁目まで歩きましたがあの界隈は高級住宅街と貧困層が同居しているような雰囲気でした。高級車を2台3台と並べている家と、道幅2メートルくらいの狭い路地にひしめき合う長屋など、様々でした。そんな中で高松宮邸はそびえ立っていました。お寺の多い街でした。 返信する あまもりさん、こんばんは (polo181) 2005-11-04 21:18:22 コメントを有難う。吉良邸は両国にありましたから、電車の経路で計れば約10キロです。ですから、泉岳寺までは急いでも2時間はかかったことでしょう。(パソコンでの推定値)息子の上杉家からの追っ手がなかったので、多分意気揚々と主君の墓所泉岳寺へと向かったことでしょう。彼等赤穂浪士の執念はどれほどのものだったか推し量ることができません。仰るとおり、泉岳寺の住職は度量のある人物だったに違いありません。翻訳物で読んだであろう外国人も神妙にお線香を手向けていました。ここは観光名所と言うよりはいまだに浪士を弔う墓所的印象が強い場所です。 返信する あまもりさん、失礼 (polo181) 2005-11-04 21:25:48 川上音二郎の文字が読めました。井戸があって、それを囲うべく石柱で囲ってありました。その石柱にかれの名前が刻まれていました。だから、オッペケペェの音二郎が寄進したものと思われます。 返信する poloさん、今日は。 (upplain) 2005-11-05 17:02:42 お元気ですね。現役時代には、泉岳寺近くの伊皿子にNTTの情報関係の研究所があって缶詰になってた頃があります。その頃、疲れると泉岳寺あたりまで行って、線香の匂いを嗅いだり、茶屋でだんごを食べたりしたもんです。何時訪れても線香の煙は絶えず、poloさんの言われるとおり長い年月が経っても人の気持ちが変わらない、日本人の気持ちなのでしょうね。あの付近は、東海道の関所跡(ホテル東京のあたり)があったり、探すと謂われのある場所が多いです。また街道筋だったので、寺院が集中しています。 返信する upplainさん、こんばんは (polo181) 2005-11-05 17:40:01 コメントを有難う。かなり元気です。少々歩いても疲れません。ああ、そうですか。あのあたりにお勤めだったんですね。庶民を超一流が同居しているような感じを受けました。わたしは、いつまでも赤穂浪士に同情を抱いて、お線香を手向ける人々が好きです。さすがに300年の年月が経て、その間の風雨に曝されて墓石の文字が読みにくくなってきている。それでも、顔を近づければ判読できます。内蔵助が切腹した場所をブロック塀で取り囲んで保存してあるのには感心しました。一心太助ゆかりの地も差がしたのですが、あまりに道路が込み入っていて行き着けなかった。 返信する ここが泉岳寺 (熊子) 2005-11-05 21:46:36 赤穂浪士は年末の定番ですね。赤穂の塩はいまでも有名です。いろんな見方があって、主君がもう少し人心掌握ができリーダ性があれば、一国を潰す事もなかったとか、諸説もありますね。職を失い、路頭に迷う配下の武士たち、それでも忠義のために敵討ちを成し遂げた。私も好きな上司が嫌いな奴にコテンパンにやられていたら、きっと仇討ちしますね(規模は小さいですが)、忠義とは愛と尊敬がなければできませんね。 返信する 熊子さん、こんにちは (polo181) 2005-11-06 16:31:20 コメントを有難う。お取り潰しに会った家臣達は路頭に迷いますよね。だから、もう少し賢い生き方をすればよかったのかもしれません。私だったら、吉良上野介とあそこまでの対立はしなかっただろうと思います。でも、歴史は起きてしまったことそのものです。主君の仇討ちのために命をかけた浪士達は、今も人々に愛されています。その証拠には300年を経た今も大勢の人がお参りに来ております。翻訳本で知ったであろう外国人でさえお参りしておりました。これでいいんでないかい。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
この山門には記憶があります。
東京散策のリクエストをして、poloさん、行ってくださった事、とても嬉しく思います。
昔行ったときも、線香の煙が漂っていました。今もそうなのですね。
もうすぐ、討ち入りの日がやってきますね。
有り難うございました。
吉良邸から泉岳寺までどれほどの道のりか知りませんが、首を持って返り血を浴びてるだろう志士たちを受け入れたこの寺の住職は肝の据わった人だったんでしょうね。浅野家の菩提寺であったとしてもです。
首洗井戸に「川上音」まで読める字がありますが、ひょっとしてあの川上音二郎でしょうか。オッペケペーで一世風靡をしたという。
現役時代には、泉岳寺近くの伊皿子にNTTの情報関係の研究所があって缶詰になってた頃があります。
その頃、疲れると泉岳寺あたりまで行って、線香の匂いを嗅いだり、茶屋でだんごを食べたりしたもんです。
何時訪れても線香の煙は絶えず、poloさんの言われるとおり長い年月が経っても人の気持ちが変わらない、日本人の気持ちなのでしょうね。あの付近は、東海道の関所跡(ホテル東京のあたり)があったり、探すと謂われのある場所が多いです。また街道筋だったので、寺院が集中しています。