3週間ほど前に、NHKの番組「試してガッテン」で、「幸せになるカツ丼の作り方」という番組を見た。私はポークカツレツが大好きなので、名古屋に行くと必ずある名店へ行ってそれを食べる。しかしカツ丼は学生時代を除くとあまり食べたことがない。ドンブリものそのものがあまり好きではなかったのだ。ところがこの番組を見てから、無性に食べたくなって、妻に頼んで何度も作ってもらったが、満足ゆくものではなかった。だから、次回映画を見るときには美味しいカツ丼を探そうと決めていた。
一方、映画の方はというと、見たい作品がなかなか現れない。だから、カツ丼が延び延びになっていたのだった。私の時代は漫画は軽蔑され、メディアとして認知されていなかった。わずかに戦争物の「ノラクロ一等兵」が受け入れられていた。それでも、あまり長時間これを読むと父母に叱られたものだ。偉人の伝記物を読みなさいと厳命されるのだった。そのような時代に育ったお陰と言っていいのかどうか、今もその影響が色濃く残っている。従って、手塚治虫氏の作品も何一つ読んでいない。
「どろろ」とは脇役として登場する若き女性の名前だ。戦乱の中で両親共になくしてしまう。他人の懐を狙う一匹狼として徘徊している。見えざる糸が主人公「百鬼丸」のもとに彼女を引き寄せる。彼は、天下取りを目論む父によって悪魔に売り渡されて誕生している、生まれつきの不具者だ。カラダの四十八箇所が失われている。だから、それらのパーツを取り戻すために悪魔と戦う定めを背負っている。どろろはいわば「怪物」である百鬼丸に惹かれて旅を共にするのだ。
映像技術の高さには驚かされた。単なるファンタジーとして見れば画像の美しさに惹かれるだろう。いま日本映画は元気だという。喜ばしいことだ。しかし、最初から最後まで殺戮シーンが続き多くの血を見ることになる。凄惨極まりない場面が「これでもか これでもか」とエスカレートしてくるのだ。原作者の「強きを挫き 弱きを助ける」の精神が見えにくい構成になっている。以上の理由から、18才未満は入場禁止とすべきだと思った。何故なら、猟奇的犯罪を助長するかも知れない作品だと思うからだ。肝心のカツ丼はみつからず、寿司屋に入る始末となった。
一方、映画の方はというと、見たい作品がなかなか現れない。だから、カツ丼が延び延びになっていたのだった。私の時代は漫画は軽蔑され、メディアとして認知されていなかった。わずかに戦争物の「ノラクロ一等兵」が受け入れられていた。それでも、あまり長時間これを読むと父母に叱られたものだ。偉人の伝記物を読みなさいと厳命されるのだった。そのような時代に育ったお陰と言っていいのかどうか、今もその影響が色濃く残っている。従って、手塚治虫氏の作品も何一つ読んでいない。
「どろろ」とは脇役として登場する若き女性の名前だ。戦乱の中で両親共になくしてしまう。他人の懐を狙う一匹狼として徘徊している。見えざる糸が主人公「百鬼丸」のもとに彼女を引き寄せる。彼は、天下取りを目論む父によって悪魔に売り渡されて誕生している、生まれつきの不具者だ。カラダの四十八箇所が失われている。だから、それらのパーツを取り戻すために悪魔と戦う定めを背負っている。どろろはいわば「怪物」である百鬼丸に惹かれて旅を共にするのだ。
映像技術の高さには驚かされた。単なるファンタジーとして見れば画像の美しさに惹かれるだろう。いま日本映画は元気だという。喜ばしいことだ。しかし、最初から最後まで殺戮シーンが続き多くの血を見ることになる。凄惨極まりない場面が「これでもか これでもか」とエスカレートしてくるのだ。原作者の「強きを挫き 弱きを助ける」の精神が見えにくい構成になっている。以上の理由から、18才未満は入場禁止とすべきだと思った。何故なら、猟奇的犯罪を助長するかも知れない作品だと思うからだ。肝心のカツ丼はみつからず、寿司屋に入る始末となった。
漫画は見るだろ、とよく人に言われますが、私は絵を見て吹き出しと解説を読むのでやはり読むです。
親から漫画なんて読むな、なんて言われたことはありません。私の子供の頃は漫画本の貸本屋があってお小遣いを貯めては借りて読みました。
新聞を手にして真っ先に見るのは四コマ漫画(笑)
将来は漫画家になろうと思ったこともあります。
手塚治虫は短編から長編、歴史からSFまでと非常に幅の広い作家です。医学博士でもあったから医術、科学にも秀でた人でした。
大人になって読んだ「アドルフに告ぐ」「火の鳥」には嵌りました。ただ、手塚作品の長編には途中だれるところがあったり、とってつけた最後になったりとするものもあります。それでも全体的には面白い。
なんてことをここで書いたら長くなりますので、ここまで(笑)(充分にもう長いがな。すんません)
手塚ファンである私もこの「どろろ」は読んだ記憶がないのです。ストーリーは今あちこちで書かれているので大体は把握しているのですが、悪魔に息子を売ってまでも天下取りに執念を燃やす戦国武将。しかしその本音は悲惨な戦国を終焉させることが目的であったと。
悪魔というのは天使に対する言葉でこれは実にキリスト教的な発想。百鬼丸とあるんだから鬼に子供を売ったと言ったほうがわかりやすいんじゃないか等々。
肉の固まりのような身体にされた百鬼丸が、その身体の部分を取り戻すために魔物を殺していく展開が残酷なんですね。
漫画ではそんなに残酷でなくても、実写の映画にしたためにより残酷な場面がリアルに表現されたのでしょうか。
私は以前から漫画を実写映画にするのには無理があると思っているほうです
なんだか変わった映画のような気がします。
漫画は漫画!という世代ですから、映画も
なかなか漫画を見ようという気持ちがおこり
ません。
今は大人も漫画にふけっている時代ですね。
漫画全てを悪いとは思いませんが、読み物は
いつも漫画!ではチョット淋しい気がする
のですが、古いのでしょうか。
文章の構成や奥になにが書かれているのか
などなど、理解する読解力を身につけるのは
しっかりした本からだと思うのですが、偏見
でしょうか。
ところで「どろろ」凄惨な部分は別として
面白い映画だったのでしょうか。
ああ、そうですね、漫画フアンは沢山います。いまでも漫画は読まない私ですが、漫画そのものを否定はしません。漫画大好き人間を軽蔑したりもしません。大いに結構だと思っています。ただ、この映画に限定して感想を述べれば上のようになった次第です。
医学的知識や科学の知識が豊富であった故に作り得た作品だろうと思います。ES細胞(あらゆる臓器に成れる細胞)の研究が盛んですね。臓器移植も盛んです。それらを予見しての物語りかとも取れる筋書きになっています。私がどうしても指摘しておきたいのは、映画の中での殺戮の凄惨さです。微塵の躊躇いもなく殺してしまいます。そればかりか、その死んだはずのものが生き返るのです。若年層に悪い影響が出やしないのかと危惧する次第です。死=悲しみ、嘆き、絶望、取り返しが付かないなどの観念を奪いかねません。生とはいかなることかを未だ知らない若者には見せない方が良いと思ったのでした。
漫画を読むか、文学作品を読むか、詩歌を楽しむか、それぞれ個人の自由でしょうね。本の活字を追い、行間の意味を発見しながら、自らでは体験できない世界を見ることができる読書はすたれることはないでしょう。映画「どろろ」は、私にとっては二度と見たくない作品でした。でも、面白いかどうかと尋ねられれば、面白い部分もあったとお答えします。映像の美しさは格別です。
とても見る気にはなれない映画と思い、物語だけ辿ってみようと検索。
その結果です。
私はこれで充分でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%82%8D#.E3.81.82.E3.82.89.E3.81.99.E3.81.98
ここ十数年、日本では猟奇的殺人が続発し、社会的問題になっております。イジメが原因で自殺する小中学生が絶えません。命を非常に軽んじていると思えたならないのです。凄惨な殺戮シーンは、アニメやゲームでも多用されています。まるでリセットすれば全てが新しく始まるとても思ってか、いとも簡単に殺してしまいます。この映画もそれらの中にあるものだと私は考えます。
寿司屋に入る前に、妻のこの映画についての感想を聞いたところ「面白かったわよ」でした。手塚治虫氏に付いては全く無知な私は、彼の作品をうんぬんすることはできません。ただ、この映画は彼とは別のところに位置していると思います。昭和3年生まれの彼は私とほぼ同じ教育を受けております。育った社会的環境も全く同じです。彼が生きていてこの作品を見て何と言うか是非聞いてみたいものです。
「愛」 決してくさくありませんよ。どろろと百鬼丸の間の愛は私も見ることができました。この日は、確かにお寿司ではなくて、お蕎麦かウドンを食べるべきでした。