アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

第六章 オレンジ カウンティ(Oange County)

2009-01-23 20:33:42 | Weblog
カルフォルニア州の中にあるオレンジ郡は、ニューポートビーチ、コスタメサ、サンタアナ、アーバインなど、沢山の市があります。
郡庁所在地はサンタアナ市です。
アナハイム市はディズニーランドとメジャーリーグのロスアンゼルス・エンゼルスの本拠地エンゼルス スタジアムがあるので有名です。

アーバイン市はカルフォルニア大学のアーバイン校があり、高等教育が充実しているところです。
一度、大學のキャンバスの周りにある道路をは一人でドライブしたら、どこかとんでもないところに来てしまったかと思うほど広く、大學の建物がどんどん小さく遠くになって、心細くなり、どきどきして運転していると、やっと遠くの方に高速道路を走っている自動車が見えてホットした経験がありました。

また、南カルフォルニアの空の中枢を担っているオレンジ カウンティー空港があります。1923年からの歴史をもつ空港で1970年アメリカの代表的俳優であり居住者であった ジョンウェイ の名前も別名いわれています。空港内にはジョンウェイの大きな銅像が立っています。
住んでいるアパートから近かったので夫の出張での送り迎えをはよくしました。
コスタメサには大きなショッピングモールで有名なサウスコーストプラザーがあります。又、コンサートやミュジカルが催されるパフォーミングアートセンターもあります。

どこへ行っても駐車場の広さには吃驚します。
しっかりと駐車した場所を覚えていないと大変なことになります。
自分の自動車の車種もまだ覚えていない時、英語もあまり出来ないので説明のしようがなく、泣きたい気持ちだったが自動車が少なくなり、どうにか見つけて帰ることが出来たと話していた人がいました。

アパートのコインランドリー室で

2009-01-22 16:07:03 | Weblog
住んでいるアパートには洗濯機を置く場所がありませんでした。
別棟にコインランドリー室があり洗濯物をかごに入れて抱えていきました。
洗濯機が大きいので、まとめて洗うようになりました。最初は抵抗がありましたが、慣れてくるととても便利でした。

ある日娘が日本から来ているときに、デェズニーランドに行き、私が暗い劇場の中で転び、膝に大怪我をして、救急車で病院に運ばれたことがありました。
15針も縫って包帯を巻いてる状態で洗濯室にいくと、「どうしたのですか」と女の人から声をかけられました。
事情をはなし、遠方にある日本語のできる韓国人の医者のところに通っていると話すと、「遠方のところに通うのは大変だから、私の夫が紹介するから、ニューポートビーチの病院に行きなさい」と親切に言ってくれました。

医者の奥さんキャロンさんです。
それからお付き合いが始まりました。
3歳の男の子がいて、ハロウインの時に、子どもに医者の格好させみせにきました。

2番目の子どもが生まれた時、教会で洗礼をするとの事で誘われ一緒に行きました。
赤ちゃんは白いベビードレスを着ていて、「これは私が作ったのよ、上の子も着て、ドレスの裾の裏に着た子供の名前を刺繍して大切に保管しておくのよ」と説明して裾のをあげて見せてくれました。
暫くして、リツ子さんの家の近くに引越し、オープンハウス(新しい家に引っ越した時に家の中を見せるために知人を呼ぶパーティー)にご招待されました。
一流の籐家具セット(以前に話していた何年もかけてそろえた家具)ソファーの生地の柄にあわせ、天井から下がっているランプの傘の柄、鉢植えの柄、みんな同じように揃えて素晴らしいコーディネイトでした。

我が家(アパート)にご招待する

2009-01-21 22:07:18 | Weblog
ハリエット先生に、英語を教えていただいているので、月謝を払いたいと申し出るととんでもない、ボランティアとして教えているので受け取らないと言うのです。
どのようにして、のお礼の気持ちを伝えようかと考え、お誕生日に、バラの花束を贈ったり、手作りランプを差し上げたりしました。すぐに写真とともに、お礼状が来ました。でも、一番喜ばれたのは、狭いアパートの我が家にご招待したことでした。

その日はエレンさんと一緒にご招待しました。日本料理を召し上がっていただきたいと思い、いつも作り慣れている献立にして、生もの以外のもので、テンプラ、筑前煮、ほうれん草の胡麻和え、ご飯、果物などお出ししました。日本酒も少し差し上げました。初めての日本料理で戸惑ったかと思いましたが、皆さんはきれいに召し上がってくださいました。

ハリエット先生とエレンさんは同じイギリス生まれ、楽しそうにお話をしておられました。
また、クリスマスの時に娘達が2年ぶりに日本から来て全員揃ったことがありました。ハリエット先生とチャールズさん、日本語の上手な夫妻の友達の息子さん(日本のテレビドラマに出演した人)、息子さんの友達もいらして話が弾み賑やかな一日でした。
別の日にいつもお世話になっているリツ子さんと娘さんファミリー(娘さんご夫妻は二人とも医師です)をご招待しました。
喜んできてくださいました。

バグパイプ音楽隊

2009-01-20 18:15:55 | Weblog
ハリエット先生に誘われて、老人ホームで行なわれたイベントに参加しました。
広い敷地の中に、平屋の家が立ち並び、
そこの前にある広場で、イギリスのスコットランド地方の民族衣装で、バグパイプ音楽隊が行進し、女の人が歌ったり、スクウェダンスを楽しく踊ったりして、お年寄りの人達のために催し物が色々繰り広げられていました。
温暖で安全な地域で、皆さんに温かく見守られ、ゆっくりと余生を過ごされている様子はとても恵まれた老人達だと思いました。

それから暫くしてハリエットさんの夫チャールズ(地質調査のエンジニア)が、の夫に自分が関わったロック フィルダムを案内したいとの話があり、運転大好きな夫がドライバーになって一緒に行くことになりました。

ロック フィルダムの行く途中、チャールズ夫妻のお友達の家に寄りブレックファースト(朝食)をご馳走になりました。
その友達の息子さんは日本に滞在の経験があり、日本語が上手でした。日本にいた時、日本のドラマに出演し、そこで知り合った女優がアメリカに来て彼の家に泊まり、小さい一口とんかつ(串カツかも)を作ってもらい食べた話をしていました。
テーブルの上はきれいにセッティングされ、ナプキンは日本の大型の藍染のハンカチが置かれ、壁には日本のカレンダーから切り取ったらしく、四季の季節の写真がピンで留めて飾ってありました。

焼きたてのパンにグリーンティーまで揃え温かいおもてなしをして下さいました。お友達はご夫婦とも大学の教授でした。
リタイヤして悠々自適の生活をしていました。

朝食をご馳走になった後、ダムに着くとチャールズさんは、の夫にロック フィルダムについて、昔を思い出しながら、技術的な説明をして、二人でダムの周辺を楽しそうに歩いていました。


ハリエット先生(2)

2009-01-19 06:40:10 | Weblog
家へ帰るとハリエット先生からがかかってきました。
教会の講堂がとても寒かったので行かなかったの、
よかったら私の家に来ませんか」と言われ、先生の家への道順を教えてくださったのですがサッパリ判りません。
「私は貴方の家への道順を聞いても判らないので、をかけなおし、地図を電話のそばに持ってきますから、もう一度教えてください。
「OK、待っています。」地図をのそばに置いて、かけ直すと今度はバッチリわかり、直ぐにハリエット先生のに伺いました。
最初の印象とは違い笑顔で迎えてくださいました。
週1回ハリエット先生の自宅で習うことが決まりました。
の住んでいるアパートから近くでした。

ハリエット先生はイギリスからカナダのバンクーバーに住みアメリカに移った人でした。
夫チャールズさんとお二人で暮らしていました。
「文法と発音のどちらを習いたいの」と聞かれ、は、頑張るつもりで両方習いたいとお願いしました。
教会から借りてきた教科書を、私のために作りなおして丁寧に優しく教えて下さいました。
発音の練習は先生の声を真似るのですが、全く違った発音が私の口から出るのでした。
先生のようにリズミカルに読めません。出来の悪い生徒で申し訳なく思いました。
お手紙を良く書かれ約100通もいただき、私の英語の勉強に良い教材となりました。

ハリエッット先生さんとエレンさんのお手紙は私の宝物として大切に保存しています。

第5章 ハリエット先生

2009-01-18 19:35:54 | Weblog
無料で英語を教える教会があると聞きは行ってみました。
教会の広い講堂で先生と生徒が向かいあって座っていました。
最初に教えてもらった先生にズーと教えてもらっている様子でした。
あちらこちらで、なごやかに挨拶を取り交わしていました。

一人の女の先生がのそばに来て、「サー勉強をしましょう」といってきました。
厳しい感じの人で、あまり笑顔もなく、教科書をどんどん進めていきました。
1時間過ぎ、先生の名前をしっかりと聞いておきたいと(最初に言ったようでしたが、聞き取れなかったので)先生に尋ね、名前のスペルをおきました。

次の授業の日に教会に行くとの先生はきておりません。
でも1時間ジーと待っていました
3回目に行っても先生は来ておりません
やはり授業の終わるまでまっていると、別の先生が来て、「貴方は誰に教わっているの」と聞きにきました。
「ハリエット先生です」「ハリエットなら私知っているわ、私がハリエットに貴方にするように伝えるから家で待っていなさい」と言われは彼女に電話番号を教えました。


ラスベガスに行く

2009-01-17 10:43:39 | Weblog
シニアの人達が楽しみにしている中でラスベガス行くがありました。
(ラスベガスはアメリカ合衆国西部、ネバタ州南東部にある都市、砂漠の中にある歓楽都市)
は、リツ子さんに誘われて参加したことがありました。
2泊3日の旅行でした。

シニアの人達は5セントの硬貨を沢山貯め参加している人、ギャンブルで儲けたお金を次回のためにキープしてマイナスにならないように上手に楽しんでいる人達でした。

お昼になると美味しくて安いお店をよく知っていて、は皆さんの後に付いて行き一緒に食事をしました。
大きなお皿に沢山盛り付けてあり、はとても食べられず残してしまいましたが皆さんはきれいに召し上がってり、コーヒーも大きなに何回もおかわりして飲んでいたのには吃驚しました。支払いはそれぞれ払い割勘でした。

ホテルののショーは、お年寄りのために特別席が用意され、も一緒にショーを近くで見ることができました。
日本からいらしたお客さんを何回もラスベガスにご案内しましたが、こんなに良い席で見るには初めてでした。

ベビーシャワー

2009-01-16 04:54:45 | Weblog
ミール コーディネイターのバニースさんのベビーシャワーパーティーがありました。

出産前の安定期に行われるのは、出産時の妊婦さんの負担を軽くするという思いやりからで、キッチンでボランティアとしている働いている皆さんが、
お祝いの品物を持ち寄り、バニースさんの出産の無事を共に祈りました。
これはアメリカの行事の一つです。
ボランティアの人たちはバニースさんのために窓ガラスには大きなきれいなピンク色のリボンをあちこちの窓に貼り付け、
テーブルの中央には風船で飾りつけをして華やかなムードを作っていました。テーブルには沢山の品物が重なって置いてあり、そしてバニースさんが、お祝いに頂いた品物を箱から出して披露しました。
は男女共通のものが多く、オモチャや可愛い刺繍がしてある白いベビードレス等で、は育児日記を贈りました。
お店に行きどんながいいかしらと迷うのも楽しいものです。

最後にバニースさんは、お礼にアイスクリームで出来たデコレーションケーキを切り分けも準備して皆さんにさし上げました。
とても美味しかったので帰りにケーキを売っているお店を教わりました。

Who are you ?

2009-01-15 11:38:19 | Weblog
シニアセンターでは毎年決まった行事があり、その一つにピクニックの集いがありました。
昔の人がピクニックに行くときにかぶっていた帽子を皆さんが色々と工夫して被り、誰がピクニックに行く雰囲気を作りだしているかを競いました。

またが参加した行事に、ハロウィンパーティがありました。
シニアの皆さんが意匠を凝らし仮装して会場に集まりました。当時日本から娘が来ていたので、二人で仮装して会場に入りました。

「Who are you ?」 「Who are you ?」 とあちこちから声がかかってきました。
ルビーさんが寄ってきて「マサコでしょう」とすぐばれてしまいましたが、仮装することは自分自身の気持ちを高揚させ楽しい気分にさせてくれました。
仮装している人は褒めあったり、笑いあったりして楽しそうでした。
その中で、真っ黒い衣装を着て背中を大きく曲げ、ゆっくりと歩いて仮装しているおばあさんがいて本物の魔法使いみたいでした。
本当にそっくりだったので笑いながら見ていたら、あまり見るなと、怒られてしまいました。

そのうちに社交ダンスが始まりました。
私の娘は会場の中で一番若いので、すぐに、ご年配の男の人に誘われダンスを一緒に踊り始めました。
仮装していない人もパーティーに参加していました。
ダンスのあと、仮装した人達が会場の中央に円を描くように周りはじめました。
その中から仮装大賞が決まるのでした。
インディアンのかっこうしている人、王様のかっこうしている人、鼻を高くしてピノキオの顔をした人、豚の顔をしている人、それぞれ仮装して楽しそうに歩いていました。

私はそれには参加しなかったので写真を撮ってから途中で退場しました。

ボートパレード

2009-01-14 22:33:41 | Weblog
ニューボートビーチのボートパレードは200以上のボートが参加し、南カルフォルニアでは最大でもっとも歴史のある行事です。

エレンさんの家にご招待された時にその様子を聞いたことがあります。
湾全体が見渡せる素晴らしい景観に「クリスマスのときのボートパレードは良く見えるでしょう」と聞くと「それは素晴らしいわ、沢山のボートが飾り付けをして、湾の中を一方通行で周り、アパートの近くまでボートが来るので、歌を歌っている人、ギターを弾いて楽しんでいる人の顔まで良く見えるのよ」

のアパートからも見えますがエレンさんのアパートほど近くに湾が見えないので、一度そばで見たいとフェリーボートの乗降場まで行ってみると、ボートだけでなく、湾沿いの家々も賑やかにクリスマスの飾りつけをして素晴らしいクリスマスの夜を過ごしたことがありました。

エレンさんがシニアセンターの来ない日がありました。心配になり様子をうかがうため手紙を出すと、暫くしてからエレンさんからお手紙が届きました。
「転んで顔を打ってひどい顔になりセンターに行かなかったけれども今はすっかりよくなったので来週にはいけるでしょう」と書かれたカードをもらいました。
私が手紙を書くと必ず返事が来ました。
沢山届いた手紙の中には余白がないほどぎっしり書いてあるのもありました。
私は辞書を引きながら何度も読み直しているうちに理解することができました。
エレンさんはお手紙を書くのが大好きな人でした。

当時、エレンさんにお会いしたのは89才でしたが、歳だからと弱音をはくこともはありませんでした。エレンさんがいつも元気でおられるには、洋裁をしたり、手紙を書いたり、シニアセンターで社交ダンスをしたり、キッチンでボランティアをしていることがボケないで長生きするのに良い影響をもたらしているのだと思いました。