「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-25 05:59:57 | 温故知新
「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介
「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。元弘3年・正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30(満29歳)。

「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-25 05:58:27 | 温故知新
「北条得宗家の群像」アマゾン電子書籍紹介
「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。元弘3年・正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30(満29歳)。

『南都・北嶺の僧乱記』アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-25 05:56:02 | 温故知新
『南都・北嶺の僧乱記』アマゾン電子書籍紹介。
平城京から平安京に遷都され、仏教の朝廷への影響が一挙に比叡山の天台系に主導権が移って行き、宮中の御斎会は仏事の覇権争いが日々激しくなっていき、武力を持って自分たちの言い分を押し通すために朝廷に押しかけていった。
 興福寺は藤原氏の氏寺として権力を行使、春日社の神木を持って京都に狼藉を働いた。
 それを屈し、南都の言い分を聞き入れた朝廷に、比叡山延暦寺側は大挙僧兵が日吉神社の神輿を持って京都に押しかけ、神々の威光を持って朝廷の大臣や上皇に強訴を繰り返した。
 有力寺院は財力的にも力をつけ、武力もそれぞれの寺院に僧兵を南都の興福寺・比叡山延暦寺も常時三千人を下らなかったと言われている。 武力すなわち朝廷への発言力となり、興福寺の春日社の神木や、延暦寺の日吉社の神輿で都に押しかけて狼藉を働いた。
 京都の役人や公家は神の威光の神罰を恐れて手出しができず、僧兵の強訴拡大に拍車をかけていった。
 ところが、北嶺の比叡山にも内紛が勃発、円仁派と円珍派に分裂し、円珍派は坂本の園城寺を拠点に寺門派を形成し、僧兵を持っての焼討の応酬を重ねた。
 一方、南都では興福寺と東大寺が双方僧兵を持って南都の主導権廻り僧兵の攻撃の応酬が繰り返され、複雑に南都六宗は荘園と僧兵の武力をもって戦いが続き、多武峰の拠点を持つ談山神社の僧兵は比叡山延暦寺派に組み込まれ、中国地方の大山寺まで強大な僧兵を持つ勢力へと成長し

「六角氏の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-24 06:32:08 | 温故知新
「六角氏の群像」アマゾン電子書籍紹介
近江国の守護、戦国大名。宇多源氏佐々木氏。鎌倉中期、泰綱の代に京都の六角堂に居を構えたことから六角氏を名乗る。南北朝時代から室町時代に、同族の京極氏と近江を二分して南6郡(滋賀、栗太、野洲、蒲生、神崎の守護職を得る。京極氏と佐々木氏惣領を争うなど、一族の内紛が続き、さらに朽木氏などの自立性の強い同族・奉公衆や馬淵氏ら有力国人層と対立するなど、領国支配は困難を極めた。文安年間(1444~1449)には満綱・持綱父子が家臣の反乱により自刃している。その後、六角高瀬は隣接する京都の室町幕府と対立、長享・延徳年間(1487~1492)に2度にわたる将軍親征をしのぎ、守護代伊庭氏の反乱を抑えて戦国大名の基礎を作った。その子、六角定頼が全盛期を作り、幕府政治にも積極的に関与したが、永禄6年(1563)重臣後藤父子の殺害を契機に家臣が離反し(観音寺騒動)衰退。1567年には六角氏式目を制定したが、翌年織田信長に敗れ没落した。

「前9年・後3年の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-24 06:22:49 | 温故知新

「前9年・後3年の群像」アマゾン電子書籍紹介。
前九年・後三年の役は平安後期に陸奥国で起こった俘囚(ふしゅう)長安倍氏の反乱。この反乱に関与して収拾に当たったのが源頼義と嫡男の義家(八幡太郎)である。安倍氏は服属した蝦夷の居住地である臆六郡(陸奥国衣川関以北の胆沢・江差・和賀・稗貫・紫波・岩手の諸郡)の郡司であったが、頼良の頃六郡以南の国司支配地にも進出した。子のために永承六年(一〇五一)陸奥国守藤原登任は秋田城介平重成とともに頼良を攻撃するが逆に大敗を被った。そこで朝廷の武名名高い源頼義を陸奥守に任命をする一方、上東門院彰子の重病治癒を祈願による大赦で頼良を許したために、頼良は頼義に服属し安倍頼時と改名した。頼義の任期満了の直前の天喜4年(10569権守藤原説貞の子息らが襲撃を受けた際、頼義は説貞の申し出に犯人をより頼時の嫡子安倍貞任と断定し、安部氏追討を命じた。この事件は頼義、もしくは在庁官人の陰謀とする説が多い。しかし在庁官人の相互の対立から藤原経清が安倍側に走るなど、頼義側の足並みがそろわず、翌年7月、頼時を討ったものの、11月に黄海の戦で貞任に惨敗しる。以降安部氏は陸奥を支配し、国内の官物の大半を奪取した。頼義は再三朝廷に諸国の武士・兵糧の支援を要請したが実現せず、雌伏を余儀なくされた。頼義の重任の任期が終わる康平5年(1062)出羽の俘囚清原光頼・武則が頼義の勧誘に応じて武則は一万騎を率いて来援した。これを迎えた頼義の軍は3000騎であったという。以降、頼義武則側をは安部氏を圧倒し御厨川の柵で貞任・経清を討ち取った。乱後は、朝廷から頼義は伊予守、長子義家には出羽守、武則には従五位上鎮守府将軍に任じられた。清原氏は奥羽に勢力を伸長させた。
後三年の役は、平安後期奥部地方で発生した戦乱。永保3年(1083)に豪族清原氏の嫡流真衡が養子業衡の婚儀を行おうとした際に、真衡の驕慢な態度に怒った一族は吉彦秀武が挙兵し、さらに真衡の異母弟にあたる清原家衡や藤原経清の子で家衡も呼応した。背景には、嫡流の地位強化に対す

「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-24 06:20:17 | 温故知新

「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介。
奥州藤原氏。平安後期から鎌倉初頭まで、陸奥国平泉(現岩手県平泉町)を拠点に北日本地域に支配した豪族。藤原北家の秀郷流と言われている。藤原経清の子藤原清衡を初代とする・後三年役の後。清衡は継父清原氏の遺領を継ぎ、白河院や摂関家と結んで本姓藤原に改姓し、12世紀初めの平泉に本拠を移し、陸奥国国司との協力の下、日本国に服属したエゾの統括者を意味する「俘囚之上頭」陸奥出羽押領使として奥羽・北海道方面を振るった。清衡の子2代藤原基衡、藤原氏2代父は藤原清衡、母は安部氏女と考えられ、宗任の女とも言われる説もある。陸奥出羽押領使大治3年(1128)父清衡の死後起こった異母兄弟の惟経都の内訌に勝利し、中央政府にも介入も阻止して父の遺領を継ぐ。鳥羽院や摂関家と結んで奥羽両国における勢力を拡大。本州北部・陸奥南部。出羽に対する支配を隔離した。奥州藤原氏の全盛期を3代に渡って藤原秀衡と共に築いた。秀衡との鎮守府将軍・陸奥守に任命され、名実ともに奥羽全域の支配者となった。4代藤原泰衡の文治5年(1189)奥州合戦で源頼朝に攻め落とされた。
 





「島津氏一族の群像」アマゾン 電子書籍紹介。

2019-09-23 05:42:10 | 温故知新

「島津氏一族の群像」アマゾン
電子書籍紹介。鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。

「毛利氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-23 05:37:07 | 温故知新
「毛利氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
戦国時代に中国地方の覇者に、その名を馳せた毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。鎌倉幕府政所別当大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが、嫡流ではない。
名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。
その系譜は、鎌倉時代末期に、越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう) 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てる。
時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治するようになる。
吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。
戦国時代、毛利元就が世に出ると一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した。
元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す。
しかし、慶長5年(1600)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の2か国に減封される。
江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た。

「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-23 05:27:46 | 温故知新
「北畠氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
[中世の武家。村上源氏。中院雅家(1215~1275)が京の北畠の地に住んで北畠の姓を称したのに始まる。鎌倉時代には正二位・大納言を極官とする公卿であったが、南北朝時代に北畠親房が出て後醍醐天皇の信任を受ける。その子北畠顕家・北畠顕信・北畠顕能も南朝側として活躍、顕能は伊勢国司となり、同国一志郡の多気城を本拠とする。その後も後南朝方の中心勢力になり、正長元年(1428)には北畠満雅が後亀山上皇の孫小倉宮を奉じて挙兵した。満雅は同年12月に戦死するが、室町幕府は弟北畠顕雅を赦免し一志・飯高両郡を安堵した。
これ以降、北畠氏は南伊勢、志摩、伊賀、大和に勢力を持つ大名として発展する。一族には、大河内・木造・田丸をはじめとする庶民が分立し、その勢力は伊勢中心にも及んだ。戦国時代には、伊勢の有力国人長野氏とも同盟をしたのは、天正3年(1575)にはあ信長の次男信雄が家督を継ぎ、翌年北畠具教を自殺させて事実上北畠氏は滅んだ。

「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-22 06:13:04 | 温故知新
「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介
奥州藤原氏。平安後期から鎌倉初頭まで、陸奥国平泉(現岩手県平泉町)を拠点に北日本地域に支配した豪族。藤原北家の秀郷流と言われている。藤原経清の子藤原清衡を初代とする・後三年役の後。清衡は継父清原氏の遺領を継ぎ、白河院や摂関家と結んで本姓藤原に改姓し、12世紀初めの平泉に本拠を移し、陸奥国国司との協力の下、日本国に服属したエゾの統括者を意味する「俘囚之上頭」陸奥出羽押領使として奥羽・北海道方面を振るった。清衡の子2代藤原基衡、藤原氏2代父は藤原清衡、母は安部氏女と考えられ、宗任の女とも言われる説もある。陸奥出羽押領使大治3年(1128)父清衡の死後起こった異母兄弟の惟経都の内訌に勝利し、中央政府にも介入も阻止して父の遺領を継ぐ。鳥羽院や摂関家と結んで奥羽両国における勢力を拡大。本州北部・陸奥南部。出羽に対する支配を隔離した。奥州藤原氏の全盛期を3代に渡って藤原秀衡と共に築いた。秀衡との鎮守府将軍・陸奥守に任命され、名実ともに奥羽全域の支配者となった。4代藤原泰衡の文治5年(1189)奥州合戦で源頼朝に攻め落とされた。
 

「倭寇と三浦の乱」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-22 06:09:44 | 温故知新

「倭寇と三浦の乱」アマゾン電子書籍紹介
「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京の付近や内陸部の奥地にも及び、規模も大きくなり、400~500の船団、1000~3000の歩卒、千数百の騎馬隊が出現した。構成員⑴日本人のみの場合⑵日本人と高麗人・朝鮮人との場合⑶高麗人。朝鮮人のみの場合が考えらえるが、李氏朝鮮王朝時代倭寇の内倭人の割合は10~20%に過ぎなかったと言っていることから⑵⑶の場合が多かったと思われる。日本人は対馬・壱岐・松浦地方の住民、高麗・朝鮮人は禾尺・才人などのや流亡農民を収める官庫と租粟を運搬する漕船や人民であった。捕られた人民を送還することによって反対給付をうけたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあった。高麗王朝は武力による防衛に努める一方、日本の要路に使者を送って倭寇の禁止を要請したが成果が上がらないうちに王朝は倒壊した。代わって李氏朝鮮王朝葉前王朝の政策を受け継ぎながら軍備を充実し、巧妙な懐柔策を取って倭寇の鎮静に導いた。倭寇は、朝鮮王朝に投降して官職・衣食などを与えらえ向化倭人、日本の大名や豪族の使者の名で行動した使送倭人、貿易業者として行動した販売倭人・興利倭人などに偏執分解した。明も建国当寺当初から倭寇に苦しみ、太祖は南朝征制西将軍懐良親王と交渉して倭寇を禁止させようとしたが、成果が上がらなかった。



「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-22 06:03:02 | 温故知新
「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介
1、「義民とは義を実行した民を意味するが、一般的に百姓一揆の指導者の内、後世英雄物語が作られ、地蔵尊や神社に、あるいは石碑を立てて検証されている人々を指す。義人ともいう。18世紀後半に百姓一揆の増大を受けて全国的に検証活動が行われた。検証活動の目的は過去の一揆で獲得した先例を確認して行くことにあるが、同時にそれを獲得したのが村役人である義民の行為であることを強調し、打毀しに象徴される村落内の対立激化による秩序の解体を、村役人を中心に立て直す役割を果たした。嘉永4年(1851)佐倉惣五郎の物語である「東山桜壮子」が江戸で上演され大ヒットし、惣五郎は義民と呼ばれた。この物語は各地に急速に流布され、各地の一揆指導者も義民と呼ばれるようになり、また物語は惣五郎に同化した。また幕末から明治初年の一揆は、惣五郎ら義民の影響を受けたものが少なくない。近代に入っても義民顕彰活動は展開され、特に自由民権運動には各地で活発に行われた。

『幕政三改革と世情と功罪』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-21 06:42:14 | 温故知新
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『幕政三改革と世情と功罪』アマゾン電子書籍紹介
江戸時代の封建的時代にも幕政の改革が必要として執り行われたが、何時の時代にも改革はリスクと弊害をもたらす者である。
江戸時代の中期の徳川幕府八代将軍吉宗が起こした「享保の改革」享保改革は紀州藩主から将軍に就任した吉宗は紀州時代の政策を生かし、より庶民的な立場に立って、概ね好評で自ら政務を執ったので一定の評価を得たと言えよう。
寛政改革」の松平政信は役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。 
 その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。
 結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。 
 定信引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
 定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
 その後、老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。
 江戸後期の水野忠邦の「天保の改革」は失政に終わり、その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。
 しかし老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、弘化二年(1845)九月、加増のうち一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。
 享保・寛政・天保年間の庶民の暮らしぶりと、改革は庶民の暮らしに豊かさをもたらしたか、疲弊にだけに終わったのか、江戸幕閣の幕政の政策と庶民の暮らしぶりの功罪を検証してみた。








『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン書籍紹介。1512円。

2019-09-21 06:35:06 | 温故知新
『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン書籍紹介。1512円。
「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。
仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。
「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。
ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。
「十三宗五十六派」と言われた時代から、時代の変遷で、離合集散、栄光衰退、宗派間の攻防などで、攻防は繰り返し、吸収されたり、消え去った宗派も少なくない。
ここに伝統的に宗派として存続した仏教伝承から時代の趨勢に消え去った宗派まで網羅し、列挙し日本の歴史の重要な要因として明記した。

『魏志和人伝』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-21 06:30:44 | 温故知新
『魏志和人伝』アマゾン電子書籍紹介
魏志から見た和人(日本)と国交で和国は大きく三つの国に分かれ紛争は絶えなかった。中でも最も大きい山都国は周辺に領主・郡主らの部族を三〇箇所を持っている。敵対国として九国の球磨国は幼い女子が女王で、もう一国の勢力が中国半島の出雲国も二十箇所の部族や領主を有している。山都大国が中国の皇帝に献上し良好な関係を作り、和国の支配者の扱いを期待し、朝貢の返礼に銅鏡五十枚下賜された、それを聞いた球磨国は中国の皇帝に朝貢し、和国の王印を下賜された。出雲国と球磨国の関係は良好だったが、山都大国の軍勢が出雲国を攻撃、直ぐに球磨国に応援を求めた。山都大国は球磨国に攻め込み、征服をする。ところが山都大国の弟が反乱し、兄の王を幽閉した。兄王は球磨国まで逃げ込み山都大国の軍勢を見方に山都大国に攻め上がり、弟王を滅ぼした。兄王は球磨国の女子の女王に一目ぼれで結婚の運びとなった。