「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『大内氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-20 06:01:53 | 温故知新
『大内氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
中世周防の武家。周防国の在庁官人多々良氏の内、大内村を本拠として、周防権介を称する一派が、大内介とよばれ、後に家名とした。
鎌倉期には幕府の御家人となり、周防の在国司として守護に準ずる地位を得ていた。南北朝期、大内弘世は北朝方として、応安年間(1368~1375)に防長両国を統一し、次いで九州に出兵して関門海峡を確保した。その子大内義弘は筑前に進出、博多を支配、応永の乱後は家督争いに一時家内が混乱したが、大内政弘の代までには国人層の大内氏御家人化が進められ、分国統治制度を整備された。大内義興・大内義隆の時代には、周防・長門を中心に、東は備後・石見から西は豊前。筑前に至る海上交通の要衝を支配する大大名として幕府政治にもしばしば介入した。天文20年(1551)義隆が家臣陶晴賢の謀反に有って死去し、大友氏から大内義長が養子に入って跡を継いだが、
弘治元年(1555)厳島の戦いで晴賢が敗北すると衰退。1557年毛利氏との合戦で義長が戦死し、大内氏は滅亡した。大内氏は大内版を出版するなど学術工芸の分野で奨励した。百済の王族を祖と称し、朝鮮や明との対外交流を積極的に行い、領国内でのキリスト教布教を許可した。弘世の代に本拠となった山口は、大内氏の居館を始め、在住を義務付けた家臣の屋敷が立ち並び、在住を義務付けられた家臣の屋敷が立ち並び、かつ京都から貴族文化人が招かれたので、人口も多く、和歌・連歌をはじめとする伝統文化が発展した。

>『斯波氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-20 05:59:33 | 温故知新
『斯波氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
斯波氏は足利一門の守護大名。室町幕府の管領家。代々当主が尾張守、または兵衛督、兵衛佐に任じられたので、尾張家、武衛家ともいう。
鎌倉中期に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を所領としたのに始まる。家氏の曾孫斯波高経は足利尊氏に従い、越前守護として新田義貞を討ち、将軍義詮の下で幕府執事となった子孫斯波義将を後見した。高経の弟家兼は羽州探題最上の祖となる。義将を補佐、その子斯波義重とともに斯波氏が越前・尾張・遠江3国の守護を世襲する基を築いた。義重の孫義健が早世したのち一族の斯波義敏と渋川氏から入った斯波義康とが家督争い、高経時代に最盛期を迎え我が世の春の天下だったが、後継者の早世に内紛が管領の役職に失地回復できず、存在の立場を無くし低迷し、斯波氏の後を継ぐ者が途絶えて幕府から忘れられていった。また応仁・文明の乱の対応にも見誤り、失態をぬぐうことが出来なかった。一因となった。乱中、重臣朝倉氏に越前を追われ、後に今川氏に擁せられ存続をしたが、斯波義銀(1540~1600)が永禄4年(1561)織田氏に追われ、斯波氏は滅亡した。

歴史の回想『大友氏一族の群像』グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介

2019-09-20 05:57:10 | 温故知新

『大友氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
能直以降、中世を通じて豊後国守護職を保有。能直と2代親秀の庶子らは、各各地頭職を得て豊後を中心に下向土着した。惣領家も、3代大友頼泰(1222~1300)のとき蒙古来襲に供えるために下向し、豊後高田府に守護所を定めた。6代貞宗(?~1334)は、少弐貞経と共謀して鎮西探題赤橋英時を滅ぼした。南北朝には基本的に足利方に属し、在地領主層には家督継承を廻り大友親綱、または16代大友政親(1444~1496)と17代大友義右(1484~1496)などの間で内紛が生じるが、戦国期に入っても20代義鑑が家督問題で、家臣に襲撃され死亡している。それを「大友二階崩れの変」。子の21歳の大友義鎮(大友宗麟)の代には豊後・筑後・肥後・豊前・筑前の6各国の守護職と九州探題職を獲得し、全盛期を築くが、島津藩との軋轢が深く耳川合戦で大敗し、高城合戦でも大敗し衰退してった。また藩主の大友宗麟はキリシタン大名で有名、家臣団との間で反キリシタン派との対立内紛を抱えていた。22代大友義統は豊臣秀吉から豊後一国を安堵されるが、文禄の役で苦境に有った小西行長を助けなかったため秀吉に怒りを買い、徐封された。滅亡するが、子孫は江戸幕府の高家となる。


『重源』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-19 05:53:18 | 温故知新
『重源』アマゾン電子書籍紹介
重源と言えば東大寺再建で知られている。平安末期の戦乱の中で、醍醐寺に出家し、流浪僧から、宋に渡航する事三度、念仏聖から、東大寺再建まで八六歳の生涯の物語である。
一、「上醍醐寺に出家」
重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和 国は平群県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平群で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。西国観音三三所有名な、上醍醐で修業を積み、下醍醐で教学を収めてた。.
二、「修験者への道
遊学に出た重源は、修験者の道を歩む、まず、大峰山に向かい、洞川から大峰山に表行場・裏行場の荒行を修行し、峰々を駆け巡り、ついで吉野山の金峯山寺の蔵王 権現で感得し、吉野から大峰奧崖は、、吉野から熊野まで七五靡くまで、形成されている。熊野三山の修行終えて、伊勢神宮参拝から御岳山で修験道を納めて京都に戻る。
三、「法然に浄土教を学ぶ」
京都に戻った重源は、時の流行の阿弥陀信仰に法然に浄土教を学び、阿弥陀聖として高野山など、流浪僧となって、浄土教を布教し、念仏聖となる。
四、「唐へ求法への道」
「中国三度入宋」入宋を試みて交易船で中国に阿育王寺と国清寺に修行し教学を納め帰国、その際い、阿育王寺より、舎利殿再建の資材の勧進を依頼された。二回目は重源が目指す五台山に登る。五台山で修行、教学を収めて帰国した。三度目は阿育王寺に依頼された資材の手配で入宋し舎利殿完成確認し帰国しあt。
五、「東大寺焼失」
平氏と南都六大寺が対立、南都僧兵を持って七〇〇〇人で対抗し、平重盛は4万の兵を持って奈良を攻撃し、奈良は悉く焼失し、東大寺を始め興福寺を焼失し、灰塵と化した奈良東大寺の再建に朝廷と公家・貴族の嘆きと再建の熱望した。
六、「東大寺再建と勧進」
東大寺再建に白羽の矢が重源に、六一歳の高齢の重源、一大決心、東大寺再建総勧進と言う重責に、西に東に奔走し、工事に勧進に何千と言う人々を束ね、結束させ見事大仏を完成さたが、大仏殿完成前に重源死去した。後は行勇と西行に任せられて完成した。 
七、「浄土寺建立」
浄土寺の建立と阿弥陀三尊像という、重源生存中の最大傑作の素晴らしさとその謎を探り、その偉大なる重源の企画力と行動力を表し、物語にした。

『古代史群像標榜』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-19 05:51:15 | 温故知新
『古代史群像標榜』アマゾン電子書籍紹介
日本歴史上の神話や伝説の世界から、飛鳥・奈良・平安までの時代の変貌に古代史は築かれ、わが国の国家・国体の形成の根幹と成す時代であった。
また様々な権力構造の編成に勢力の興亡が繰り広げられた。古代史に起きた”変・役・乱・事件“などの事変に刻んだ栄枯盛衰と時代の趨勢に人々の生き様と、歴史を刻み紡ぐ郡像を高く掲げた功罪と影響の標榜を探り求めようとするもの

『真田氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-19 05:48:16 | 温故知新
『真田氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
戦国時代の信濃国小県郡から上野国沼田に及ぶ国境地帯の領主。真田幸綱(幸隆)・一徳斉、(1513~1574)が武田信玄の家臣として台頭。嫡男真田信綱(1537~1575)が長篠の戦で戦死した後に、三男真田昌幸が家督を継承した。武田滅亡後は、小田原北条、徳川、上杉の3者鼎立のなか外交戦略で沼田城を死守するとともに、天正11年(1583)海士淵城(上田城)に進出し独自の検地や裁判を実施した。翌年、豊臣秀吉、上杉景勝、真田の同盟により徳川家康と戦闘状況に入り、一時沼田を北条氏と分割したが、1590年の小田原攻めの結果、沼田、上田の領有を認められ豊臣大名となった。一方繁信は大坂の陣では豊臣方に方に忠臣を誓い、徳川家康を討ち取る寸前まで丁々発しの大活躍、智恵以て策を講じて、徳川方を翻弄させ、恐れさせた。命知らずの武士の中の武士として、後世に語り継がれる所以である。一族の存続には親子二分にしてでも、家名を残す武士の宿命と刹無さを垣間見ることが出来る。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは嫡男真田信之が東軍に属し、昌幸・真田信繁(幸村)は西軍として上京する徳川秀忠を釘付けにした。両人は助命され高野山に蟄居したが、信之は家康の養女を妻にして、元和8年(1622)松代城に移封。嫡男真田信吉は(1593~1634)は沼田城主となったが5代目信直は沼田城を改易。真田藩は明治維新まで待つ支藩として存続した。

「細川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-18 05:55:52 | 温故知新
「細川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
細川氏は、足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家。足利義康の曾孫義季が鎌倉中期に三河国額田郡細川郷を本領としたのが始まりと言う。義季の曾孫和氏・頼春・師氏兄弟とその従兄妹の顕氏・定禅・皇海兄弟は足利尊氏に属し近畿・四国などで軍功を積み一族で数カ国の守護になった。和氏の子清氏は将軍義詮の執事となったが失脚し、頼春の子頼之は管領幼少の将軍義満を助け、幕府権力の確立に努めた。嫡流の当主はは、頼之の弟で養子の頼元を以降代々右京大夫に任じられ、京兆家と称され、幕府管領及び摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を世襲した。庶流の内五氏はそれぞれ和泉頼春の孫頼長が和泉上守護家、基之が和泉下守護家として共同統治し、阿波・淡路・備中の守護を世襲した。その後、管領勝元は山名持豊(宗全)と対立し応仁・文明の乱を引き起こした。その子政元は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之を擁する家臣に殺された。以来一族・家臣の分裂抗争が続き、家臣の阿波三好氏の台頭を招き、永禄四年(1561)細川晴元が三好長慶に降り、京兆家は没落した。
江戸幕府の外様大名。本家は肥後熊本藩主。和泉上守護家の細川基常の甥で養子の藤孝(幽斎)より興る。藤孝は故実・歌道に通じ、足利義昭・織田信長に仕え、丹後田辺城主となった。その子忠興は信長・秀吉に・家康に仕えて軍功を重ねた。忠興の子忠利は熊本54万石を領し、子孫がこれを世襲した。

「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 

2019-09-18 05:54:32 | 温故知新
「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 
畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。
 畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。①畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。②畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。
 ③畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に就任。その嫡子畠山満家以来管領家は河内・紀伊・能登守護家を立てた。しかしその後畠山義就と畠山政長が家督争い、応仁・文明の乱の一因となった。政長が細川政元に謀殺されてのち、一族・家臣の分裂抗争で勢力が衰え、高政は織田信長に属したが、弟で養子の昭高は家臣遊佐信教に殺された。能登守護家も上杉謙信に制圧された。昭高の子孫は江戸幕府の高家となり、能登畠山氏の子孫も幕臣になる。※「畠山氏は嫡流・傍流・庶流の流れは大きく分けて「七家」に区分することが出来る。「平姓畠山氏」「源姓畠山氏」「奥州畠山氏」「源姓畠山氏宗家」「畠山氏総州家」「畠山尾州家」「七尾畠山家」それぞれの流れと、出自を追ってみて、時代の趨勢の複雑さを知る次第であった・

「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 

2019-09-18 05:52:54 | 温故知新
「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 
畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。
 畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。①畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。②畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。
 ③畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に就任。その嫡子畠山満家以来管領家は河内・紀伊・能登守護家を立てた。しかしその後畠山義就と畠山政長が家督争い、応仁・文明の乱の一因となった。政長が細川政元に謀殺されてのち、一族・家臣の分裂抗争で勢力が衰え、高政は織田信長に属したが、弟で養子の昭高は家臣遊佐信教に殺された。能登守護家も上杉謙信に制圧された。昭高の子孫は江戸幕府の高家となり、能登畠山氏の子孫も幕臣になる。※「畠山氏は嫡流・傍流・庶流の流れは大きく分けて「七家」に区分することが出来る。「平姓畠山氏」「源姓畠山氏」「奥州畠山氏」「源姓畠山氏宗家」「畠山氏総州家」「畠山尾州家」「七尾畠山家」それぞれの流れと、出自を追ってみて、時代の趨勢の複雑さを知る次第であった・

後白河・院政の攻防』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-18 05:49:46 | 温故知新

後白河・院政の攻防』アマゾン電子書籍紹介
平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。
長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。
病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。
信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。
しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。

「今川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-17 05:52:00 | 温故知新
「今川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
今川氏は南北朝時代から戦国時代の足利氏の一族の守護、戦国大名。吉良長氏の次男国氏が三河国幡豆郡吉良荘今川【現愛知県西尾市】を領した。
国氏の孫今川範国は、元弘・建武の動乱期に足利尊氏に従い、駿河・と遠江両国の守護に補任され、今川氏の発展に基礎を作った。その次男今川貞世(了俊)は九州探題などして室町幕府の確立に尽力し、それ以降は代々駿河国守護として室町幕府の鎌倉府監視の重責を担い、上杉禅宗の乱、永享の乱、結城合戦では幕府軍の先鋒として活躍した。応仁・文明の乱で、義忠は東軍として、遠江国守護斯波と戦い勢力拡大に努めたが、今川氏親の代に戦国大名へ脱皮を遂げた。その子今川義元はさらに三河を支配下に置き、駿府(静岡)を中心に全盛期を迎えたが、永禄3年(1560)織田・徳川氏の桶狭間野戦いに敗れ、その子今川氏真の尽力も及ばず、武田・徳川氏の侵攻で滅亡した。江戸時代には高家として存続した。


「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-17 05:45:32 | 温故知新
「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。
 重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。
 頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。
 貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。
天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。
景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。


「島津一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-17 05:42:50 | 温故知新
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 鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。
比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。
建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。
南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡大した。天正15年(1600)豊臣秀吉の侵攻によって屈服し、薩摩・大隅・日向諸県などが安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属し、徳川幕府の制裁を巧みに領土を保全することに成功した。江戸時代末の幕末には薩摩藩は重要な役割を果たした。

宇都宮城の釣天井事件』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-16 06:20:14 | 温故知新
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本多正信・正純は徳川幕府創設期に幕臣として貢献し、絶大な信頼を得て、栄誉栄華を手にし、幕閣の中枢として、辣腕を振るったが、創設にこれと言った功績のままに立身出世を成し遂げ、周りの大名の不手際には容赦なく制裁と罰を将軍家の意向で裁可してきた。正純は父正信、将軍家康が亡くなって後ろ盾を失い、日頃より反目する者の恨み妬みが「宇都宮城釣天井事件」の謀略が仕込まれて、失脚し惨めな最期を迎えることになった。二代将軍秀忠でさえ疎ましく思っていた。

「伊達一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-09-16 06:17:54 | 温故知新

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「伊達氏」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。
ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。また「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。
また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。
初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)の字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。
伊達朝宗~伊達政宗(9代)~伊達稙宗~伊達晴宗~伊達輝宗~伊達政宗(17代)~伊達成実~伊達綱宗~伊達宗勝~伊達吉村~伊達宗紀~伊達宗城~伊達慶邦~伊達邦直~伊達邦成~伊達順之助。
戦国大名伊達稙宗から有力大名らと婚姻を結び、陸奥国守護となり、晴宗は奥州探題となり領土拡大していったが、嫡子晴宗と対立し、七年間にわたる「伊達氏天文の乱」を起こし一時衰退したが、輝宗が徐々に再興し
ていった。何より伊達氏を居並ぶ大名の中で吐出して勢力拡大に寄与したのは、政宗の安土桃山時代である。天正12年(1584)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大(114万石)となった。しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領(置賜・伊達・信夫など)および田村郡72万石のみを安堵され、米沢城に戻る。さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに置賜や伊達郡など旧領6郡を没収されて、米沢72万石から岩手沢58万石に減封された。
政宗は岩手沢城の縄張りや改修修築を行ない、岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)と改名し居城とした。それでも石高で豊臣一門(猶子)の宇喜多と小早川をしのぎ、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)に次ぐ大大名になった。。