When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
平将門征伐で功労のあった鎮守府将軍俵藤太秀郷公が、天慶五年相州鎌倉松ケ岡稲荷大明神に詣で、下野国富士村に勧請し衣食住の祖神、商売繁盛の守護神として創建されました。信仰者拾数万人、県内随一の稲荷神社として著名であります。:ここです→ Google マップ
その後文治二年秀郷公の子孫佐野荘司讃岐守成俊公が唐沢城再興の折り、富士村の稲荷大明神を現在の田沼の地に勧請(かんじょう)して、社領を寄進し佐野荘の総社として尊崇されました。その際近郷近在の人々は競って瓶に土を入れてこの地に運び、塚を築いたのでこの塚を一瓶塚、この塚の上に稲荷の祠を建立したので一瓶塚稲荷大明神と称したと伝えられております。
初午祭りは古くより遠近の老若男女の信仰者で賑わい、三月の初午祭には群馬、埼玉、東京方面よりの参詣者が多く、数万の人手で賑わい、しんこまんじゅうと植木市は名物となっております。
しんこまんじゅうの由来
佐野・田沼の一瓶塚稲荷の初午祭と言えば必ずしんこまんじゅうの名がきかれます。
いつの頃か、一瓶塚稲荷の境内に小さな茶店が出来て、参拝の人達の人気になりました。働き者の亭主と、まるでお稲荷様の使い姫のような気立てが良く美しい女房が、米の粉を素材とした花まんじゅうなるものを作り売り出したところ、風味ともに評判になり近郷近里に知れ渡り大繁盛しました。信心深い店の夫婦はお稲荷様のご利益と信じ、花まんじゅうの売り上げの一部を毎日奉納する事にしました。ところがこの善行が知れ渡りまたまた人気を呼んで一瓶塚稲荷と花まんじゅうは切っても切れないものになりました。
花まんじゅうは信仰の証明とさえ思われ、参拝の帰りには必ずお土産にするようになりました。花まんじゅうと言う名はいつのまにか信仰まんじゅうと呼ばれるようになり、今ではしんこまんじゅうの名で親しまれています。幾百年も過ぎた今日でも、その素朴な製法による風味が守られ、更に新しい衛生管理のもとで、しんこまんじゅうは現代の人々に忘れ得ぬ郷愁をそそる味として親しまれております。
春の花をかたどったしんこまんじゅうは、ピンクと緑がつぶ餡。黄色と緑がこし餡になっております。
お好みでどうぞ。
御菓子処 大田屋
昭和二十四年松山町の大火
昭和24年3月7日午後から松山方面は北西の風が吹き、夜に入ると風速16mの強風となり、湿度も50%以下に達し、県下各消防署で特別火災警報を発令中であった午後8時40分ごろ、松山町本町二丁目付近から発火、折からの風速15mの風にあおられ、火の手は川越-鴻巣県道にはさまれた本町二丁目埼玉銀行松山支店裏から商工会議所、八百清魚店、深沢油店、さらには農協倉庫、醸造所日野屋など三丁目、四丁目、元宿各町の一部を焼失して8日午前零時30分ごろ鎮火した。
罹災状況は、焼失戸数約95戸、98世帯、被害者517名(埼玉新聞 24.03.09)損害約1億7千万円に達した(「埼玉県の気象災害」によれば、焼失111戸、損害2億8千3百万円と記されている)。
「埼玉県警察史」より
東 照 宮
元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行(けたゆき)五間・梁間(はりま)三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中取郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。
寛永二十一年(1644)に遷宮式が行われた。
昭和六十二年三月 太田市教育委員会