When words leave off music begins.
BGM on "♪YouTube":
Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
1)花びらには、手をふれないでください。
人の手が触れることで、ウイルスを媒介しバイラス病になります。これがもとで枯れてしまいます。バイラス病は薬品では退治することが出来ず、抜いて処分するほか方法がありません。
2)カメラの三脚は通路内でご使用ください。
畝の中では、根と球根が成長しています。ダリアの根は、土中の浅いところで成長しています。
そのため根元を大事にしています。
進雄神社由緒略記
当神社は平安時代清和天皇の御代諸国疫病流行の際勅諚に依り貞観十一年(869年)に尾洲津嶋より勧請し創祀されました
以来天喜五年(1059年)源頼義公奥州征討の時当社を尊崇され、武運長久を祈誓し凱陣にあたり奉賽の為め社殿を修造し社領を寄進されると共に当社司職を当国司職の惣管司に補任せられました
戦国時代に至り武田上杉北条の各武将を始め箕輪城主高崎藩主等亦深く崇拝せられて神領を寄進し奉幣の儀を行われる事屡々でした江戸時代寛永十九年将軍家光公より御朱印三十石を寄進せられ以来幕末迄続いておりました
明治維新に至りそれまでの社名「天王宮」を御祭神の大神様の神名にちなみまた雄大に進むを祈誓し「進雄神社」と改称しました
赤城神社由緒略記
赤城神社は東國開拓の神々が祀られている古来の名社である
東國経営にあたつた上毛野君の創祀以来 國司 武将が篤く崇敬し朝廷からも承和六年(西暦八三九年)に従五位下を贈られ 元慶四年西暦八八〇年に従四位上にあげられ 延喜式には名神大社に列せられた 長元九年(西暦一〇二八年)頃には正一位に叙せられ 次いで 上野國の二宮とうやまわれていた
赤城山は高く 美しく うしろに山山をひかえて 雄然と聳えている
山頂の小沼から出る粕川を始め各河川は麓の村〃をひろくうるほしている その尊厳と恩恵とはみ山とよはれ親しまれ尊はれ上毛野君の昔から祀りつかれて来た
分社は群馬県下のみで七十八社その他を併せると三百余社に及ぶ昭和十九年(西暦一九四四年)には國幣中社に昇格の内定があつたが 終戦後は國土建設 開拓精神発揚のため 神威益々顕著である
赤城神社(正一位 上野国神名帳)
赤城神社は群馬県内は基より、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県の各地に三〇〇余ある分社の総本社です。古代、崇高な赤城山と水源である沼の神霊を自然崇拝の対象に、農耕の神、東国開拓の神々の大己貴命、豊城入彦命を主神に祀り、創建は崇神天皇の御世と伝えられています。延喜式神明帳には上野国三大明神の一つに列せられる古社(延喜式内社)です。
上野の勢多の赤城のからやしろ
やまとにいかであとをたれけむ
と金槐集の源実朝の歌にもあるように、将軍をはじめ武将達が崇敬したばかりでなく、一般の人の信仰を集めました。また、神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には、
もと赤城神は一宮であったが、はたを
織っているときに「くだ」が不足し、
貫前神に借りて織りあげたので、織物
が上手で、財持ちである貫前神に一宮
をゆずり、自分は二宮になった。
ということが見えています。その頃は、一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰を集めていたから、このような伝説が起こったのでしょう。