When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉時代の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享2年(1488)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空掘などからなり、このような姿になったのは、戦国時代のことと考えられます。
昭和48年(1973)5月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。
平成20年3月 埼玉県教育委員会
比企城館跡群 菅谷館跡
菅谷館跡は、鎌倉時代の武蔵武士畠山重忠(はたけやましげただ)の居館と伝えられていますが、現在残っているのは戦国時代の城跡です。山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏と扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏が争った長享年中の大乱(1487~1505年)の中で再整備されたと考えられています。これまでに5回の発掘調査が行われており、かわらけ、白磁の皿、天目茶碗、すり鉢、火鉢等が出土しています。
菅谷館跡の構造は、本郭(ほんくるわ)を取り囲むように二ノ郭、三の郭、西ノ郭、南郭が配置されています。各郭は深い空堀(からぼり)と高い土塁(どるい)に囲まれ、簡単に攻め込めない造りになっています。
面積は約13万㎡(東京ドーム約3個分)あり、昭和48年に国の史跡に指定されました。さらに、平成20年3月には「比企城館跡群 菅谷館跡」と名称変更されました。
また、菅谷館跡には四季折々に美しい花が咲きます。春には桜やスミレ、キンラン、ギンラン、夏にはヤマユリ、秋から冬には寒桜や小さな草花を楽しむことができます。
(Resource:埼玉県立嵐山史跡の博物館)
辛亥の年(471年)7月に記す。私はヲワケの臣です。いちばんの祖先はオホヒコ、その子はタカリノスクネ、その子はテヨカリワケ、その子はタカヒシワケ、その子はタサキワケ、その子はハテヒ、その子はカサヒヨ、その子がヲワケの臣です。先祖代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと)(大王(おおきみ)の親衛隊長)として大王に仕え、今に至っている。ワカタケル大王(雄略(ゆうりゃく)天皇)がシキの宮にある時、私は大王が天下を治めるのを助けてきた。・オホヒコ(意富比垝)
そこで、このよくきたえあげた刀をつくらせ、私が大王に仕えてきた由来を記しておく。
当社は、この高坂の鎮守として祀られ、大同年間(806-10)、坂上田村麻呂がこの地を通った時、日本武尊が東夷征伐の折にここに陣屋を置いたという故事にちなみ、尊の武徳を追慕してその旧跡に社を建立し八剣(やつるぎ)明神社と号したことに始まるという。当社の裏(北側)の山林には、今なおこんこんと清水の湧く泉があるが、この泉には日本武尊が東夷征伐に臨んで身を清めたという伝説が残っており、「日本武尊お祓いの清水」と呼ばれている。また、地内には古墳も多く、当社の境内にも剣前古墳と呼ばれる後期古墳がある。
中略
当社が、高坂神社と称したのは、明治42年2月19日のことである。その契機となったのは、政府の合祀政策による神社統合で、同年2月10日に境内末社の日枝神社・疱瘡神社、同字無各社天神社及びその境内社の雷電社、字二番町無各社八雲神社が、高坂の村社である当社に合祀されている。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
浄土宗 不動堂
由 緒
創立年月日由緒等詳カナラサレトモ往年ヨリ在来ニシテ城恩寺所有地中ニアリ 同寺持ニテ信徒崇敬シ来リタルハ古老ノ確知スル所ナリ 先年建物破壊セシヲ以テ天保五年五月城恩寺住職檀中右堂信徒協力シテ再営ス則当今現在ノ建物是也
(Resource:「新篇武蔵国風土記稿」比企郡巻之十 松山町)
:今も、市民に親しまれている材木町の「不動堂」は 曾つて城恩寺が材木町に在った頃の境内の一角にあったお堂である。このお堂は、成田山新勝寺勧請の不動明王、太田大光院より呑龍上人金像の分霊を祀り、古くから当地方の念佛道場であった名残りの建物である。
(Resource:「東松山市の今昔あれこれ」東松山市本町研究会)