When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
当社は五明のほぼ中央の字栃宮に鎮座する。創建は宝永七年(1710)のことと伝えられ、『風土記稿』には「白石神社 祭神詳ならず、一に栃ノ宮と云い、小名栃と云所に鎮座あればかく唱えり、村の鎮守とす」と載せている。栃ノ宮という小名は、氏子の口碑によれば、新井白石が名付けたと伝え、その時に自ら植えたのが本殿右手にそびえる栃の木であるとされる。
社伝によれば、新井白石が超畑・奈良梨・篠津の三村五百石を賜り当地に居住し、江戸文化興隆に貢献したので、没後に白石を追慕して栃ノ宮を白石大明神と改称したという。また、白石が当地で生まれたともいわれ、境内の南に隣接する字新井には、白石の居住跡とされる場所もある。白石は宝永六年に幕府に登用されており、当社創建の年も白石の事跡に附会したものであろうか。
(中略)
なお、昭和三十六年の社殿再建までは、白い石が神体として祀られていたが、崩れ易い石で建て替えの時に崩れてしまい現存しない。(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
天王様は、境内社八雲神社の祭りである。特に神賑わいもなく、他の祭りと同様の祭典のみである。しかし、明治期に天皇様の祭りがあまりに負担であったので、神様を川に流して捨てたところ、疫病が流行したため、慌てて祀り直したとの話を伝えている。以後「天皇様の祭りは欠かすな」と言われるようになった。かつてはこの祭りに、うどん粉に混ぜた「炭酸饅頭」を供える習わしがあった。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
白 石 神 社 御 由 緒
御祭神 大己貴命 中筒男命 別雷命 菅原道真公
当社の創立は第百十四代中御門天皇の宝永七庚寅年(1710)九月と伝え栃の宮と称えた 往古徳川幕府の硯学の臣新井白石先生が宝永六年当地に近い越畑(今の嵐山町)奈良梨(今の小川町)篠津(今の白岡町)の三邑の五百石を賜りこの地に居住して江戸文化興隆に貢献したと伝えられ享保十年(1725)白石の没後邑人白石を追慕敬仰して当社を白石大明神と改称したといわれる
安永二癸巳年(1773)十一月本殿を再建する
明治四年(1871)中村社に列格される
明治五年一月二十一日社殿炎上し古記録等消失する 同六年本殿を再建して白石神社と改称する
明治十五年(1883)三月十七日玉川大火により社殿消失し翌十六年再建する
明治四十一年(1908)二月字小谷無格社中木神社 字四郎台無格社雷電神社の二社を本社に合祀する
昭和三十六年(1961)四月社殿の老朽化により改築落成し今の社殿となる
時の流れるに従い当社の御由緒の薄れゆくのを恐れここに僅かの古記録と伝承により書き留め御神徳を敬仰するものである
平成六年十月穀旦
古墳とは、土を高く盛り上げ、内部に遺体を葬るための施設や副葬品が埋納されている墳墓である。築造は一般に三世紀後半から七世紀末までで、古墳時代と呼ばれている。
古墳の形には、前方後円墳、円墳、方墳などがあり、墳丘には埴輪が置かれ、外側には周溝がめぐっている。埋葬施設には、粘土槨、竪穴式石室、横穴石室などがある。
県内には現在約三〇〇〇基の古墳があるが、最古の古墳は四世紀末の桶川市熊野神社古墳(円墳、粘土槨)とされている。五~六世紀中ごろは、畿内の政権と政治的に結びついた首長の墳墓、すなわち行田市埼玉古墳群が盛んに築造された。六世紀末から七世紀末になると、鹿島古墳群のように小円墳が密集する群集墳が各地に出現する。
また、この時期には、吉見百穴のような横穴墓群が比企、入間地方に造られた。
平成十一年九月 埼玉県
鹿島の古墳
古墳とは今から千七百年前から千四百年前頃にこの地域の有力者を埋葬するために造られた墓で、土を高く盛り上げて、その内部に遺骸を埋葬する場所が設けられています。
古墳の形は、平面形から前方後円墳や円墳、方墳などと様々な形がありますが、鹿島古墳群は円墳だけで構成されています。この様に小さな円墳が密集する古墳群を特に「群集墳」と呼び、鹿島古墳群はその規模から県内を代表する群集墳です。
鹿島古墳群では、遺骸を埋葬する施設として荒川の河原石を積み上げた長さ四メートル、幅二メートル前後の楕円形の石室が築かれています。また、出入りできる入り口が設けられ、こうした石室を横穴式石室と呼びます。この石室には遺骸とともに生前使用していた太刀や弓矢、刀子などが副葬されました。鹿島古墳群では太刀などの武器具が多く出土しています。
また、墳丘の表面は河原石で飾られており、築造された当時は草や木に覆われた現在のイメージとは異なった、白く輝く荘厳な姿であったようです。
埼玉県教育委員会・川本町教育委員会
井椋神社(いぐらじんじゃ)
井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒(まさつね)から武基、武綱、重綱、重弘、重能(しげよし)の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。
初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。
祭神は、猿田彦大神のほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗(しらはた)八幡神社等がある。
また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。
平成十一年九月 埼玉県
当社は、坂東八平氏の一族秩父重綱により勧請され、その嫡流重弘・重能・重忠に崇敬されたと伝える。秩父氏は、重綱以来「武蔵国総検校職」を務めた名族である。「畠山」を名乗ったのは重能が最初で、これが当地の荘園領主である初代畠山荘司となった。
当社の本社というべき社は、畠山氏の本流である秩父氏の館があったといわれる秩父吉田郷の惣鎮守「井椋五所神社」であると伝える。
祭神は、猿田彦命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の五柱で、本社と同一である。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
鶯の瀬:この伝説から、ウグイスは旧川本町の鳥とされていましたが、深谷市との合併後のウグイスについては定かではない・・・・。
荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。
ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。
時ならぬ岸の小笹の鶯は
浅瀬たずねて鳴き渡るらん
また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。
平成十一年九月 埼玉県
白田山観音院満福寺は、真言宗豊山派の寺院で鳥羽天皇(1110年頃)の御代に弘誓房深海上人が草創した。
後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩堤寺としたものである。
本尊は不動明王、制吨迦、矜羯羅両脇侍の三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥壇、前机と共に町指定文化財になっている。
現本堂は、以前は講堂で間口十間、奥行七間あり、寛政四年(1792年)建立のものである。
重忠公の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若経、御朱印状などが伝えられている。
別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である六尺三寸の千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬(和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)などがある。
また、当寺の裏には、彰義隊士水橋右京之亮の墓、重忠廟の碑もある。
昭和五十九年に県から「ふるさとの森」の指定を受けた美しい杜に囲まれて鎮座する当社は、源頼義・義家親子が天喜四年(1056)の奥州征伐の際、この地に本陣を設け、鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所を建てて戦勝を祈願したことに始まる。当社の社殿が東北を向いているのは、こうした創建の事情によったものであり、隣接する拾六間の地内には義家の設けた陣屋の跡地もある。また、当地は、寿永二年(1183)には鶴岡八幡宮の社領となっており、寄進状が現存する。
江戸時代の当社の状況については、『風土記稿』三ヶ尻村の項には次のように記されている。
八幡社 村の鎮守なり、神職の伝へに当社を、延喜式内田中天神なりといへり、されど証とすべきこともなし、此地は古鶴岡八幡宮の社領にして、殊に文書にも村名の条に載たる如く、寿永二年鶴岡八幡社領となりし地なれば、彼社遥拝のため勧請せしものにて、其頃より鎮座なることは知るべし、田中天神のことは延命寺の天神にも云処なれば、何れが正きを知らず。
この文中に出てくる田中天神とは、『延喜式』には播羅郡四座の一つとしてその名が見える田中神社のことで、当社、三ヶ尻地内にあるにある田中神社、川本町田中の知形神社の三社が論社とされている。しかし、未だにいずれの社が延喜式内の田中神社なのか、判然としていない。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
埼玉県指定史蹟畠山重忠墓
鎌倉時代の関東の代表的武将畠山重忠(秩父氏の出)は長寛二年(1164年)父重能の二男としてこの地畠山館に生まれ幼名を氏王丸といい長じて畠山庄司次郎重忠となる。剛勇にして文武両道に勝れ源賴朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず伊勢国沼田御厨の地頭職を兼ねた鎌倉武士の鏡として尊敬されたが賴朝なきあと讒言により北条氏のため横浜市二俣川にて一族と共に討たれた。時に重忠四十二才 子重秀は二十三才であった。
後にこの地畠山館跡に重忠主従六基の五輪塔を建て暮碑としてまつった。
この地の東北方に重忠産湯の井戸がある。また北方三百メートルの荒川の嶮崖に鶯の瀬という浅瀬がある。
ここは重忠が岡部六弥太(棒沢成清の説もある)のもとに行き帰路雨に逢い洪水で渡れずにいるとき鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたという所である。
その時よんだと伝えられる
時ならぬ岸のおささのうぐいすは
あさせたづねて鳴き渡るらん
との歌碑がある
昭和四十五年十一月吉日
埼玉県教育委員会
深谷市教育委員会
畠山重忠公史跡保存会
畠山重忠公の墓
鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(1164年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸(うじおうまる)と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。
剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(1205年)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
この畠山館跡には、重忠公主従の墓として六基の五輪塔がある。
また、館跡には嘉元二年(1304年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている
平成十一年九月 埼玉県
畠山重忠公産湯ノ井戸
秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(現大里郡川本町畠山)に館を構えました。のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります。
平成十六年十一月吉日建立 畠山重忠公史跡保存会